イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 59
由加里は矢口の肩を支えながらビルを出た。
すでに雨は止んでいた。
西の空を見ると、遠い雨雲が夕陽に染まっていた。
由加里は車道に近づいていき、タクシーに向かって手を上げた。
そこで停まったタクシーに、矢口と一緒に乗り込んだ。
車内には、座席の革のにおいが漂っていた。
汚れた矢口を見て眉をひそめたドライバーに、由加里は病院の名を強く言った。
タクシーは走り出した。
車窓の水滴がうしろへ流れていった。
矢口はずっと右腕を押さえたまま、なにも言わなかった。
日が明けて、月曜日の朝になった。
由加里はGRシステムのミーティングルー厶で、打ち合わせをした。
参加者は由加里、大島、佐川、桑部の4人だ。DNプランニングへの提案を議論したのだが、その内容は以下のように決まった。
示談で折り合いをつける。
Megaカードの配布は、クレジットカード漏洩対象の218人のみとする。金額は1000円とする。配送費なども含め、この費用はGRシステムが負担する。
コールセンター費用、再構築するクレジットカード決済機能の開発費用、セキュリティ診断費用。これらはGRシステムが負担する。
合わせて非公式ながら、浦谷が暴力行為を教唆したことについては、穏便に済むよう協力する。
ただし、サイト売上が下がった分については補償しない。
この提案ならば、GRシステムの支払いは1千万円以内となる。
エンドユーザーに対しては十分な補償と言い難いが、乏しい開発費で絞られてきたGRシステムとしては、これでもなかなか厳しいものだった。
由加里はミーティングルームを出て、営業部のセクションに戻った。
営業部のスタッフはほとんど社内にいた。
DNプランニングへの常駐はなくなり、外部のコールセンターへの電話も少なくなっていた。
そのとき、斎藤の席に仁科が繰り出して、メールの返信について議論していた。
ちょうど一区切りとなったのか、仁科が話しかけてきた。
「やっと、落ち着いてきましたね」
「そうね。それにしても、矢口くんのことは、ありがと」
仁科に対して、矢口の様子を見に行くように頼んだのは、由加里だった。
「いえ。駆けつけるのが遅くなって、矢口さんには、申し訳なかったです」
「こちらこそ、ほんと、ごめんなさい……。争いに巻き込まれてしまったようで」
「いえ。自分はあれくらい、問題ないですよ。しかし、矢口さん、骨折までされて、入院になるとは……」
そう言う仁科については、虻沼たちと争った割に、怪我などはなさそうだった。
由加里は声をひそめて聞いた。
「仁科くんは、大丈夫だったの? 虻沼って人たちと、揉めたんでしょ?」
仁科は頭を掻いて、うんざりと言った。
「ああいう人たち、面倒ですからね。結局、こちらは手を出しませんでした。そのうち勝手に、あちらさん、バテてましたよ」
「根に待たれなきゃいいけど」
「そうですね。夜道には気をつけます」
由加里には、そのセリフが本気なのか冗談なのか、わからなかった。
それから2日後の水曜日、大島は浦谷を訪ねていった。
報告会をした、あの会議室の隅で、2人は話をした。
浦谷は不満げに大島の提案を聞いた。
話が終わって大島が立ち上がったとき、浦谷は言った。
「大島さん」
「はい?」
「嫌になること、ありませんか? 経営って」
大島は社員たちの顔を思い出した。
無能過ぎる自分を支えてくれる、由加里たちをありがたく思った。
大島は言った。
「嫌なときもありますね。しかし、ほかの生き方は、思いつきません」
大島は会議室を出た。
岩倉は報告会が終わってから悩んでいた。
自分がエビデンスの秘密を明かしてしまったことについて、どう始末をつけるべきか思いあぐねいていたのだ。
浦谷に謝るべきなのか。
しらばっくれていればいいのか。
悩んでいるうちに2日が経ち、大島がやってきた。おそらく示談の条件を提示しにきたのだろう。
岩倉は会議室の前まできて、扉をノックした。
大島が帰ったばかりだから、まだ浦谷は中にいるはずだ。
ノックへの返事はなかったが、岩倉は中に入った。
窓際の席に浦谷が座っていた。
浦谷は岩倉に背を向けて、窓の外を見ていた。
窓の下には冬枯れの街路樹が痩せた指のように並んでいた。
岩倉は近づいて、呼びかけた。
「社長……」
浦谷は言った。
「お前だろ、あのこと、バラしたの」
岩倉は固まった。
浦谷のことだから、それこそ虻沼を使って報復でもしてくるかも知れない。
「すみません。社長……」
岩倉は、『退職願』と書かれた封筒をテーブルに置いた。
「私なりに、責任をとらせていただきます」
そう言って、岩倉は背中を向けた。
そのとき、浦谷が言った。
「甘めえよ」
岩倉は立ち止まった。
「辞めるくらいで済むと思ってんのか」
岩倉は振り返った。浦谷と目が合った。
「す、すみません」
「OCOの売上、回復させるのが、ホントの責任の取り方だろ。バカヤローが」
浦谷は封筒を手に取ると、「まだ、いてもらわねえと困る」と、岩倉に差し出してきた。
水曜日の夕方のことだ。
佐川が休憩から帰ってきたとき、うしろの席の安原が言った。
「うげえ、満天市場もやられましたよ!」
「どうした?」
と、佐川は振り返った。
安原は自席のディスプレイを指した。
加藤が流したチャットのメッセージが見えた。
《加藤》あの満天市場で、個人情報漏洩事故です。http:xxxxxxxxxxxx
そのチャットウィンドウの上に、chromeのウィンドウがあり、そこにニュースサイトの記事が開かれていた。
記事のタイトルは、『満天市場で情報漏洩か』となっていた。
満天市場とは、国内最大級のショッピングポータルだ。
セキュリティ対策については、業界最高レベルのはずだ。
佐川は言った。
「ホント、切りがないよな。僕も満天、使ってるけど。大手でも、漏洩するときはするんだよな」
「そうですね。マジ、油断も隙もないですよ! クラッカーなんて、根こそぎ地獄に落ちればいいんです。まったく……」
「守る側はいつも、やられ損だな。やり返そうにも、相手がわからないんじゃ、しょうがないし……」
「それが、インターネットのクソなところです」
安原は記事を読み進めながら、ため息をついた。
今回の、OCOの事故について思い出しているのだろう。
たしかにまだ、終息しきったとは言えない。
OCOについては、引き続きセキュリティ対策に取り組んでいかないとならない。安原の仕事も残っているし、穴があればまた大騒ぎになる。
安原は言った。
「そうだ、佐川さん。あとで、矢口の顔でも見に行きますか。……どう? 加藤は、お見舞い、行ける?」
加藤は自分のディスプレイに向かったまま、キーボードを打った。
《加藤》今書いてるシェルスクリプトができれば行けます。あと、安原さんのコミットでバグがありました。気をつけましょう。
安原はそのメッセージを見て、ぼやいた。
「うるせえな。こなくていいよお前は」
6時過ぎには仕事を片付けて、行ける者で見舞いに行くことになった。
佐川、安原、由加里の3人で行くことにした。
加藤や緑川も行きたそうだったが、病院に大勢で押しかけるのは、さすがに迷惑だろうということになった。