イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 57
仁科は黒ジャージと対峙した。
矢口は上体を起こして、息を呑んで見守っていた。
黒ジャージは両手を高い位置で構え、間合いを詰めると、仁科へミドルキックを放った。キックボクシングの動きのようだった。
仁科は左足を上げて防ぐと、前へ出て相手を突き飛ばした。
黒ジャージは濡れた路面に倒れ込んだ。
矢口は膝に左手をついて、起き上がった。右腕は力なく垂れていた。
仁科は言った。
「大丈夫ですか?」
矢口はうなずいた。
「ああ……」
「早く行ってください! 矢口さん」
矢口はバッグを拾った。
雨に濡れていたが、クリアファイルに入った資料は読めるだろうか。いずれにせよ、矢口が報告会に出るだけでも、意味があるはずだ。
仁科は言った。
「こっちはいいから、逃げてください!」
矢口は、「すまん」と言って走りはじめた。
「待てや!」
と、虻沼の声がした。矢口は振り向いた。
仁科は、追いかけようとする虻沼の襟を掴み、足をかけて転倒させた。
そのとき黒ジャージが立ち上がってきた。
虻沼も立ち上がり、ポケットからメリケンサックらしきものを取り出した。
仁科は右足を引いて構えた。
「自分が、相手になりますよ……」
矢口は再び、通りに向かって駆け出した。雨の中、危うい足取りだった。
矢口は通りに出た。
駅とは反対だったが、タクシーでも拾えればなんとかなりそうだった。
時間は16時を回っていた。
空を見ると、雨雲が重苦しくのしかかってきた。
傘をさした人々は、矢口を気持ち悪そうに眺め、通り過ぎていった。
2車線の車道沿いには商店が並んでいた。
矢口はバッグを抱え、車道へ近づいた。
タクシーは見えなかった。
右腕が重く痺れていた。
鼻血が止まらなかった。
そこで矢口はふと、なにが間違っていたのを考えた。
2日前、緑川がやってきたときから、間違いがはじまったのだろうか。
それに感化されて、正義感を発揮したことが間違いなのだろうか。
いや、GRシステムに入社したことが間違いなのか。
それとも、浦谷の話を聞いてしまったことが。
わからない。
矢口は疲れはて、道端にあったポストにもたれた。
そのとき、スマートフォンの着信音が鳴った。
由加里はちらりと腕時計を見た。
17時になろうとしていた。
DNプランニングの会議室は、あいかわらず緊迫していた。
浦谷はさんざん、大島へがなり立てた。
「おたくが原因で事故が起こったのに、うちが負担するのは、おかしいですよ!」
大島は冷や汗を流し、固まっていた。
浦谷はため息をついてから、椅子に背をもたれ、ペットボトルのミネラルウォーターに口をつけた。
浦谷は言った。
「いつまで、ズルズルと結論を先延ばしにされるつもりですか? もう少し、決断力のある方だと思ってましたよ。ねえ、大島さん」
テーブルには、浦谷の用意した覚書があった。
大島が取り出した社印ケースが、その横に置かれていた。
浦谷はテーブルを叩いた。
「わかりました! それでは、もうこの会はお開きにしましょう。ユーザー対応は一向に進まないわけですが。――その結果こうむった損害は、むろん、全額補償してもらいます! 告知も出しますよ。GRシステムという開発会社の理解が得られず、対応が進まない、と」
「ちょっと、ま、待ってください」
大島はそう言って、腰を浮かせた。
唸り声を上げてから、熱に浮かされるように右手を上げた。
大島は社印ケースを開けた。
社名印と丸印が並んでいた。
黒のスタンプ台と赤の朱肉があった。
大島は下唇を噛み締め、険しい表情をした。
そのまま、覚書を引き寄せ、黒のスタンプ台を開けた。
由加里は思わず声を漏らした。
「大島さん!」
大島は一瞬動きを止めたが、「俺が、責任を取る……」と呟いて、社名印を右手に持った。
黒インクを付けて、覚書の社名欄に捺印した。
『株式会社ジーアールシステム 代表取締役 大島和寿 東京都渋谷区……』
それは黒々と押された。
由加里は覚書の一部を見た。
『乙はセキュリティ問題の責任を認めるものとする……エンドユーザーへ配布する金員を建て替えるものとする……』
佐川は両手で頭を抱えていた。
岩倉はずっと無言だった。
雨宮弁護士は、ノートPCのキーボードを叩いていた。
次に、大島は社印――丸い縁の実印を掴んだ。
由加里は見ていられず、目を閉じた。
そのとき、ノックの音がした。
由加里は目を開けてそちらを見た。
「なるほど、広い会議室ですな」
桑部はそう言って部屋に入ってきた。ドアは開いたままだ。
スラックスの裾が濡れていた。革靴には雨の雫が残っていた。
ほのかに煙草の香りが漂ってきた。
おそらく、外で一服してきたのだろう。
室内はざわめき立った。
「これは失礼。わたくし、GRさんの顧問をやらせて頂いております、弁護士の桑部と申します。よろしくお願いします」
由加里の視線に気づいたのか、桑部は申し訳なさそうに言った。
「いやはや、遅れてしまいました。……彼を、迎えに行っていたら」
すると、桑部はドアの陰へ視線を向けた。
「さて、選手入場です。あなたがいなきゃ、はじまらない」
ドアの奥から人影が現れた。
由加里は口元を押さえて、声を漏らした。
「矢口くん!」