イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 54
17日は朝から雨が降っていた。
由加里がGRシステムのオフィスにやってきたのは、14時過ぎのことだ。
吹き付ける風雨が窓に当たって音をたてた。
外は薄暗く寒々しかった。
やがて、大島と佐川が出社してきた。
由加里は2人へすべてを説明した。
『矢口が買収され、エビデンスが隠蔽されている』
この話を、2人はなかなか信じなかった。
そのうち、大島は右手で頭を押さえ、唸り声を上げた。
「クソ、矢口、なんでだよ、おまえ……」
大島はスマートフォンを取り出し、おそらく矢口へ電話をかけはじめた。――しかし、電話はつながらなかった。
佐川は言った。
「もし、その話が本当なら、エビデンスを根拠に、過失相殺できる可能性がある、ということですね。まあ、それが10パーセントか、40パーセントかわからないにしても」
「ええ。そうだと思うわ。こればっかりは、桑部先生に聞かないと、なんとも言えないけれど」
「だとしたら、Megaカードの配布自体が、大幅に縮小されるかも知れないですね」
そこで、大島は言った。
「そうだな。DNさん側に、例えば数千万円規模の支払いが残るとしたら。……ユーザーの反感を覚悟で、配布を止めるかも知れない。とはいえ、カード情報の漏洩対象者については、そうはいかないだろうが」
佐川は答えた。
「そうですね。だとしても、大きな違いですね。全体へのMegaカード配布費用がメチャクチャ重かったので。9万人強に、500円から1,000円の支払いって……。それがなくなれば、1億円規模の賠償金が、3分の1以下になる、ということになりますね」
「まだ、わからないな。裁判になるか、示談になるかも、これからだ」
由加里たちは手分けをして、16時からの報告会の準備を進めた。
そんな中、大島は鍵のかかった棚を開け、社印を取り出した。
「それ、今日、使うんですか?」
と、由加里は尋ねた。
「ああ。そういうことに、なるかもな……」
由加里は大島を止めるべきか悩んだが、なにも言えなかった。
大島は言った。
「そろそろ、行くぞ」
DNプランニングの会議室に、総勢8人がそろった。
先方からは、浦谷と岩倉をはじめ、5人が臨席した。
由加里は、弁護士の桑部が来ていないことに不安を覚えた。極力スケジュールを調整し、同席してくれることになっていたのだが。
由加里はふと、初日のことを思い出した。
事故が発覚し、謝罪に駆けつけたあの日。
当時は火事場のあわただしさがあったが、今回は、責任の重さがのしかかってきた。
「――さて、ここで、あらためて紹介させて頂きます」
と、浦谷は1人の男を示した。
「こちらは、弁護士の雨宮さんです。当社の顧問をやって頂いております」
雨宮と呼ばれた男は立ち上がって、「よろしくお願いします。雨宮です」と、浅く辞儀した。小顔に短めの七三分け。細いフレームの眼鏡をかけた、いかにも怜悧そうな男だ。
雨宮は着席して、ノートパソコンを広げた。
岩倉は始終顔を伏せていた。誰とも目を合わせようとしなかった。
しばらく間があってから、「それでは、はじめましょう」と、浦谷が言った。
そこで由加里は立ち上がり、資料を回してもらった。
資料が行き渡ったのを確認してから、由加里は縮こまりそうな肩や背中を伸ばした。
しっかりと報告しなければ。そう思って息を吸い込んだ。
「それでは、事故の報告をさせて頂きます」
はじめに由加里は、時系列の事実を報告した。
事故の発見と社内対応。DNプランニングへの報告。エンドユーザーへの告知。クレジットカード情報の2次的被害。それらの事後対応について。
続けて佐川が立ち上がり、アタックの具体的な内容や、セキュリティホールの詳細について説明した。
雨宮はキーボードを叩いて、なにかを記録していった。
由加里は佐川の説明を聞きながら、徐々に息苦しくなっていった。
報告が終われば、次に支払いの話になる。
きっと、浦谷の執拗な追及がはじまる。
大島は追及をかわしきれず、最後に社印をとりだして、決定的ななにかに捺印する。
いや、さすがにこの場では押さないだろうか。
いずれにしても、浦谷はここで、けりをつけようとするだろう。矢口の気が変わらないうちに。
大島は茫然とした表情をしていた。
由加里はどうすべきか、わからなくなっていた。
支払いを拒否して逃げ切るべきだろうか。
時間を稼げば矢口を説得できるだろうか。
いや、その分、ユーザー対応が後手に回り、事態が悪化するだろうか。
思考がずっと同じところを旋回していた。
そのらせんから逃げたかった。
いまなら怪しげな壺でも掛け軸でも英語教材でも買うだろう。
苦しみから逃がれるなら、なんでもしそうだった。
佐川の説明が終わった。
佐川は様子をうかがうように、大島と由加里を見て、着席した。
由加里は、「ご清聴、ありがとうございました。事故の報告は以上です」と言って、着席した。
誰も喋らなかった。
窓の向こうの雨音が聞こえてきそうだった。
大島は堪りかねたのか、わざとらしい咳払いをした。
雨宮は常に鋭い目つきで、GRシステムの陣営を観察してきていた。
「さて、そろそろ、次の話を」
浦谷はそう言って、テーブルに伏せていた文書を表にした。
その文書は『覚書』と題されていた。
「すでに、大島社長には見て頂いておりますが。これは、もろもろの支払いに関する覚書となります。当社がスピーディに動けるよう、あらかじめ、責任を認めて頂くためのものです」
由加里は驚いて大島を見た。
大島は黙っていた。
「よろしいですかな、大島さん。必要でしたら、もう一度、文面などご確認ください。とはいえ、さほど、長いものではありませんが。……どうされました?」
大島は腿に手を置き、こぶしを握っていた。
「申し訳、ありません」
と、大島は苦しそうに言った。
「はい?」
「いまは、まだその判断が……」
「はい、なんでしょうか。聞こえませんな」
大島の額に汗がにじんでいた。悄然とした目つきで虚空の1点を見つめ、微動だにしなかった。
浦谷は言った。
「なにをお考えですか? 代替案があれば、ぜひお聞かせ願いたいですね。どうされました? そもそも、印鑑はお持ちなんですか? まさか、お持ちでないということですか? 実に不誠実だと思いますな。それは」
そのとき、突風が吹き付けて窓枠が軋んだ。
風の音が低く響いた。
大島は歯を食いしばって、荒い呼吸をしていた。
由加里は矢口を恨んだ。
いや、そもそも、由加里や佐川に先んじてリスク喚起を行った、矢口を恨むのは筋違いである気もした。
なにを言っても、矢口はもういない。
今後、出社するかもわからない。
いや、退職届を出して立ち去ったのだ。
もう、話すこともないかも知れない。
それにしても、浦谷も大した役者だった。
「大島さん。印鑑は、お持ちなんですか? まずは、そちらの誠実さを見せてくださいよ。まさか、お持ちですら、ないということですか? なんとか言ってください!」
と、浦谷はテーブルを叩いた。
すると大島は、そろそろと、震える手をカバンに伸ばした。
プレッシャーから逃げようとする、無意識の動きのようだった。
大島は社印を取り出した。
「この通り、誠意を持ってお打ち合わせするため、お持ちしました。しかし、まだ結論は……」
由加里は心底恐ろしくなった。
じわじわと、浦谷のペースに巻き込まれていた。