イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 47
矢口がDNプランニングへ行った翌日の、金曜日のことだ。
夜になってから、社員たちは近くのビアガーデンに行った。
商業ビルの屋上に設えた、大規模なビアガーデンだ。
ブッフェ形式でドリンクも無制限とあって、さながら祭り会場のように賑わっていた。
熱気の中、ビールと汗と肉の匂いが漂っていた。
そんな中、矢口は白いテーブルについて、料理に囲まれていた。
由加里、仁科、緑川、斎藤をはじめ、総勢9人ほどの社員が集っていた。
料理をかき集め、ビールジョッキもいき渡った所で、仁科が言った。
「さて、乾杯といきましょうか。それでは、藤野さん、ひとつお願いします」
矢口のとなりに座る由加里は、戸惑いながらも引き受けた。
「それでは、僭越ながら……。さて、みなさん。日頃のお仕事、おつかれさまです。こんな暑い時期だからこそ、鋭気を養うべく、今夜は……」
仁科は真剣な表情で聞いていた。
斎藤はお預けを命じられた犬のようにジョッキの泡を眺めていた。
たまりかねたように、緑川が言った。
「先輩、長いですよ。とりあえず飲めー! カンパイ」
由加里は緑川を睨むと、「バカね」とつぶやいて笑い、ジョッキを突き出した。
ジョッキがぶつかった。
水滴が料理の上に舞った。
矢口は泡に口をつけた。
生エビス飲み放題という触れ込みだったが、ビールの違いなどわからなかった。
そこで矢口はビールの価値について考えた。
ひたすら苦く臭い液体でしかない。
こんなもののなにがいいのか。
苦味が料理の旨さを引き立てるのか。
だったら、ツマミなしでビールばかり飲むやつらは、いったいなんなのか。
――とはいえ、矢口の機嫌はよかった。左側に、由加里が座っていたからだ。
「そう言えば藤野さん、こないだイイ男連れてましたね」
と、斎藤が言った。
由加里は鼻で笑った。
「適当なコト言わないで。見間違いかなにかだと思うけど。どうせ、当てずっぽうですよね。そんな相手がいたら、紹介してください」
矢口以外は笑い声を上げた。
すっかり色恋の話で盛り上がった。酒の席の勢いだ。既婚の者は斎藤だけだった。
そんなとき、ほろ酔いの緑川が、ローストビーフを頬張りながら言った。
「せや、矢口さん、いてはるんですか? 彼女」
視線が矢口に集まった。矢口は答えた。
「いや、まあ特に……」
内心では、『このくだらねーセクハラ展開、終われよ』などと思ってはいたが。
緑川は目を輝かせて聞いてきた。
「ほなら、好きな人は?」
仁科は空気を察したのか、斎藤と違う話をはじめた。
緑川と由加里に挟まれた矢口は、逃げ出したい気持ちをこらえて、答えた。
「別に、いないけど」
そこで、由加里は言った。
「意外ね。知的で物静かな、矢口くんの雰囲気も悪くないと思うけど。そうね、あとは積極性、かな」
「はい……。積極性、ですか」
矢口は由加里を見つめた。
こうして人は、あやまった方向へ転げ落ちていく。
人の心ほど得がたいものはないのだが、矢口はそれを知らなかった。ミドルウェアのセキュリティパッチのように、簡単に入手できるものと思っていた。
矢口みたいな者にはたいてい、過程というものがない。すべてを手に入れようとして、すべてを失うはめになる。