イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 39
佐川はなかなか出勤してこない矢口に電話した。午前中に2度も。しかし矢口は出なかった。
そんな中、午後1時を過ぎる頃に矢口が現れた。
矢口は例のごとく、つぶやくような挨拶を口にして自分の席に歩いてきた。
席は佐川のとなりだった。
「佐川さん……」
と、背後から安原の声がした。
(わかったよ、やるよ)
と内心でぼやいて、佐川は立ち上がった。
「ちょっといいかな。矢口くん」
矢口は椅子の背に手をかけながら、なんですか、と答えた。
「ミーティングルーム、行こうか」
「え、なんですかいきなり。とりあえず、先にメールチェックしていいですか」
すると、安原が立ち上がって近づいてきた。
「矢口、おまえ疑われてんだわ。アタックの件。だからPC触るな」
それに対して、矢口は半笑いで言った。
「え、安原さん、俺のなんなんですか? なんの権限で、それ言ってるんですか?」
「うるせー黙れっておまえ。昨日さ、昼以降なにやってた? 知ってる? カード情報のこと」
「え? 漏洩したやつでしょ」
「そーだよ。おまえ、よく知ってるよな。いなかったくせに」
「いやいや。社内チャット見ればわかるでしょ。あれ、ネットワーク制限なんてされてないし。ていうか、OCOのサイトで発表されましたよ」
「とにかくPCに触るなや」
「だから、アンタなんなの?」
「席から離れろって」
安原は矢口の肩を掴んだ。
矢口はそれを振り払った。
「触んなデブ」
「あんだとコラ!」
安原は矢口の椅子を蹴った。
椅子は騒々しい音をたてて、横に倒れた。
そこに、佐川が割って入った。
「ご、ごめん、矢口くん。納得いかないかも知れないけど、従って欲しい。どうしてもいま、敏感になってるんだ。近頃、矢口くんおかしいからね。だから、ちょっと社内のネットワークには、アクセスして欲しくないんだ……」
営業部がざわめいていた。
『おい、矢口だってよ』
『犯人いたぞ』
『まだ決まってはないだろ』
『いや、あいつならやるって』
そのうち、仁科がやってきた。
「佐川さん。今の話、ホントですか? 矢口さんが……」
仁科の目が血走っていた。
佐川は大きな声で言った。
「みなさん。まだ、特定の社員が犯人だと、決まったわけではありません。断じて、そんなことはありません。いいですか。――それはそれとして、労務的なことで、少々トラブルがあり、騒いでしまいました。申し訳ありません」
それでも、社内はざわめき立っていた。
宇佐が不安げに見つめてきた。
仁科はまだ殺気立っていた。
安原は鼻息を荒げ、いまにも殴りかかってきそうだった。
そのとき、うつむいていた矢口が言った。
「……はっきりしてくださいよ、佐川さん」
「え?」
と、佐川は矢口を見た。
矢口は、ソースコード中の明白なバグを指摘するように言った。
「疑いを、口にしちゃったら、最後ですよ、ねえ佐川さん……。違いますか」
「い、いや、そういうつもりじゃ……」
「俺、これからどうすればいいんですか? そんな風に言われちゃって。俺がアタックしてるって、思われてるんですよね」
すると安原が、矢口を指さして言った。
「こんなやつ、どうせクソの役にも立ってないでしょ? だいたい、会社こねえし。だから、佐川さん。言っちゃってくださいよ。疑ってるぞ、って。仕事してるフリして迷惑かけんな、って」
そのとき、佐川は気がついた。
矢口のポケットから、茶色い紙の端がのぞいていたのだ。
封筒かなにかだろうか。
『退職届』
その言葉が、佐川の頭に浮かんだ。