イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 37
佐川たちは晩飯を食べてから帰ることにした。
夜風があまりに冷たく、佐川はマフラーを巻き直し、両手をコートのポケットに入れた。
街はすっかり夜の顔となり、夜遊びの若者たちや、飲み屋を巡る会社員たちで賑わっていた。
そんな中、佐川たちは裏通りにある定食屋に入った。
食券式のよくあるチェーン店だ。
佐川は野菜炒め定食、安原はすき焼き定食プラス大盛り、加藤はチリ鍋定食の食券を買った。
4人がけの席で熱いほうじ茶を飲んでいるとき、加藤は言った。
「矢口さんって、なかなか苦労してるんですよ」
安原は苛立たしげに答えた。
「なに? なんなのおまえ? 矢口派なの?」
「いえ……。そういうんじゃないですけど」
加藤は押し黙った。
安原は調理場の方を見ながら、「ツーオペじゃ回らねえだろ。料理クソ遅せえな。増員しろよ」と、ぼやいていた。
やがて、3人の食事が運ばれてきた。
あらかた食べ終わる頃、佐川は加藤に尋ねた。
「さっきの話、どういうこと? 矢口くんの……」
「はい?」
「言いかけたよね。矢口くんは、苦労してた、みたいなこと」
「はい、そうですね。……参考になるかわかりませんが」
すると、加藤は紙ナプキンで口を拭いてから、とつとつと語りはじめた。
その話は、佐川の胸に印象深く残った。
矢口はかつて小学生だった。
少なくとも、生まれたときから根暗なプログラマーだったわけではない。
矢口が小学3年生のとき、彼の父親は家を出ていった。浮気相手と一緒になったのだ。
養育費はあったものの、生活は楽ではなかった。
そんな中、母子家庭で育った矢口は小学校を卒業し、地元の中学校に入った。
矢口はいじめられており、本当は学校に行きたくなかった。
そんな矢口がついに不登校となったのは、2年生のときにある事件があってからだ。
ある日矢口は、2時限目の美術の授業のため、美術室へと廊下を歩いていた。
すると、財布が落ちていた。ジッパー式の赤い小銭入れだった。花柄の、いかにも女生徒が使っていそうなものだった。
矢口はそれを拾って、職員室に届けようとした。しかし、2時限目が迫っていたため、そのまま美術室へ向かった。
その日の授業ではデッサンをした。
花瓶のチューリップを囲んだ生徒たちは、B2やB3の鉛筆でそれをスケッチブックに描いた。
そんな授業の中で、矢口は後ろから声をかけられた。
「おい、落ちたぞ、矢口」
そう言ったのは、美術の教師である渋川だった。
どうやら、先ほどの赤い財布がポケットから落ちたようだった。
矢口は驚いて答えた。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、矢口は財布を拾い上げた。
渋川は、『おまえがそんな、かわいい財布使うのか』とでも言いたそうだった。
授業が終わったあと、矢口は財布を届けようと職員室に向かった。
職員室の引き戸を開くと、奥に美術の渋川がいた。
彼は厳しい表情で近づいてきて、こう言った。
「矢口、さっきの財布! 持ってきたんだろうな」
「は、はい……」
そう言って、矢口はポケットから例の財布を出した。
周りの教師たちはどよめいた。
そのあと、矢口は教師たちに囲まれ、詰問された。
財布は、同じ学年の女生徒のものだった。
1時限目の体育の授業を受ける際、財布を机の奥に隠していたのだという。
財布には、母親の誕生日プレゼントを買うために、2千円を入れていたのだという。
教師たちは矢口に、2千円を返せと言った。
渋川もこう言った。
「俺が見つけてなかったら、黙ってたんだろ? バカヤロー! 貧乏だからって、そんなことしたら、お母さん悲しむぞ」
矢口はもちろん金など盗んでおらず、別の不良生徒のとばっちりを食らっただけだった。
「強情なやつだな! 早く2千円、出せや」
そう怒られても、サイババでもない矢口は、金など出せなかった。
即日、母親が呼び出され、2千円を支払った。
家に帰ってから母親に殴られた。往復ビンタをされたのははじめてだった。
矢口は教師にも、母親にも信じてもらえなかったことを悔しがった。
ほどなくして、矢口は中学校に通わなくなった。
そんな時期に、矢口はパソコンにはまりだした。
同じ町内のリサイクルショップで買ってきたパソコンには、出自の怪しいWindows 2000が入っていた。そんなものでも、矢口家にとっては大変な買い物だった。
矢口はその唯一の相棒と遊びほうけた。
そんな中学校生活だったが、なんとか卒業をさせてもらい、他県の私立高校に進学した。
いまでも矢口は、母親に仕送りをしているのだという。
――加藤はこんな話をした。
それを聞いていた安原は言った。
「ハイハイ。よくできた話だな。まあ、ホントだとしたら、大変だなあ、とは思うけどよ。それとこれとは違うから。――だからなに、って感じでしかねえし」
一方で、佐川は加藤の話に同情した。
笑う門には福来たる、という言葉があるが、泣きっ面に蜂、という言葉もある。
貧しさは心をひもじくさせ、さらに悪運を呼び込むのだろうか。
もしかしたら矢口は、不運の蟻地獄の底辺にいるのかも知れなかった。
そこで佐川はふと、自己組織化の法則について思い出した。
似たものが寄り集まって、勝手に肥大化して世界を築いている、というのが、自己組織化の法則だった。
あらゆる生物の誕生についても。
宇宙のなりたちについても。
フラクタル理論もしかり。
溶液中の素材の結晶化についても。
脳神経の構築過程についても。
経済の本質についても。
人間関係についても。
すべて、自己組織化の法則によって説明できるのだという。
――そこで佐川はぼんやりと、万物を支配する単純かつ強力なこの法則が、人間の人生に対しても働くことを思った。
幸福が幸福を呼び、不幸が不幸を呼ぶ。
事故が事故を呼び、困難が困難を呼ぶ。
それに気づいたからどうだ、ということでもないが、とにかく佐川は暗澹とした気分になった。
3人は店を出た。
駅に向かう道すがら、冷たい夜風の中で安原は言った。
「いいですか。とにかくもう、矢口には、パソコン触らせないですからね。佐川さんが言わなけりゃ、俺、言いますから」
佐川は言った。
「わかってる。僕が話をするから。大丈夫だ」
「冤罪なら、それはそれで謝ればいいじゃないですか。もしあいつがクロで、次の被害が出たら、責任問題ですよ!」