イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 17
佐川は自席にいた。
GRシステムのオフィスには、社員が出社しはじめていた。
ゆるいフレックスタイム制になっており、9時半にはあらかたの社員が集まる。
営業の仁科や斎藤をはじめ、個人情報漏洩事故の事情を知る者たちは、技術陣がいつになく殺気立っている理由を伝えていった。
『おい、あの話聞いた?』『まじで……。なにかの訓練?』『やばいやばい』『え? 倒産すんの?』『仕事してる場合じゃねえよ』『ありえない』『由加里先輩、大丈夫?』『なんなんですか? これ……』
誰しもが半信半疑だった。
ヤフーニュースによく出てくるあの事故が、身近に起こったことを信じられないようだった。
佐川はクレーム対応をする由加里たちのフォローをしていた。チャットも流れ続けていたし、ときおり現場から電話がかかってきては、情報提供を求められた。
クレジットカード情報が漏れていないという技術的な根拠は?
個人情報漏洩した件数が9万件であるという技術的な根拠は?
ウイルスメールが送信されてきたがどうすればいい?
クリックしちゃったらしいんだけど。
「おい加藤、リポD買ってきてよ」
と、背後で安原の声がした。
頼まれた加藤は、安原を無視しているようだった。
佐川はたびたび、安原が加藤に絡んでいる声を聞いた。安原なりの気遣いだったのかも知れないし、安原の頭がついに限界にきていたのかも知れない。
明け方にはじまったアタックについては、加藤が即席で組んだ、『アタック検知とブロックを自動で行うスクリプト』で沈静化していた。
とはいえ簡易的なものであるため、アタックのパターンが変われば役に立たない。
事実、朝方に新しいパターンが2度現れて、スクリプトの改修を余儀なくされた。
それでも、ないよりはずっといい。
社内のざわめきの中、安原はトイレに立った。その姿は瀕死の猪のようだった。
帰ってきたとき、安原は肩を回しながら話しかけてきた。
「しっかし、なんだったんですね。誰か、カナダ人の恨みでも買ったんでしょうかね」
佐川は答えた。
「そういや、はじめのアタックは、カナダからだったか。いずれにしても、アタック元のサーバは、踏み台にされただけかも知れないし。……犯人はわからない。結局ね」
「踏み台……。それだと、犯人がどこの国のやつかもわからないってことですね。インターネットってマジ、クソですね」
安原はそう言って、顎を掻いた。
(本当、クソすぎるよな。そんな道を選んじまったよな)
佐川は内心で、安原の真似をしてみた。おもしろくもなんともなかった。
やがて、エンジニアたちが出社しはじめた。
佐川を含め、技術部には総勢9人が所属していた。
佐川、加藤、安原、矢口、プラス5名。
佐川と安原は出社した補充兵に、かいつまんで状況を説明していった。
そんなとき、ついに矢口が現れた。
矢口は小さな声でぼそりと挨拶し、佐川の右手の席に座った。
「いまごろ出勤とかありえね」
と、安原の独り言じみた声がした。
案件担当者の矢口に対して、安原が文句を言いたくなるのは、当然のことだった。
矢口は無言のまま、メールチェックをはじめた。
佐川は言った。
「状況、わかってる? 昨日の夜から、大変だったんだけど。事故のあとも、海外からアタックが続いて……」
矢口は自分の画面を見たまま、他人事のように言った。
「あー、昨日は忙しくて。……大変でしたね。カナダからのアタックって、元々多いですからね。ついにやられましたね」
そこでまた、安原がつぶやき声がした。
「なーにが忙しいだよクソがどーせヤラシイ動画見てカルピス漏洩してたんだろクソが早くこいや」
その声が矢口に聞こえたかどうかは不明だ。
矢口はターミナルを立ち上げ、OCOのサーバへログインした。
佐川ですら理解できないコマンドを駆使して、矢口はログ類を素早く見ていった。
矢口はプログラミングだけでなく、サーバ管理やセキュリティについても精通していた。
そんなとき、佐川はふと疑問に思った。
社内全体で共有しているチャットで、『あのこと』を書いていただろうか。
佐川はチャットのログを調べたが、書いてはいなかった。
メーリングリストなどにも、『あのこと』は書いていなかった。
事故の報告書やサイトの告知などにも、『海外からのアタック』としか書いていなかったはずだ。
佐川は矢口に尋ねた。
「矢口くん。……なんで、アタックがカナダのIPからだったこと、知ってるの? 家からは、ログインできないでしょ?」
矢口はしばらく黙っていた。
それから、思い出したように言った。
「廊下で話してたんですよ。技術のやつが」
「廊下で、そんな機密事項を?」
「ええ」
「誰だよそれ。誰がそんな話をしてた?」
「ぼうっとしてたんで、確認しませんでしたよ。そんなの。俺、朝弱いんで」