イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……
※本作はフィクションです
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vol. 01
GRシステム社のオフィスに、ひとりのエンジニアがいた。
名前は佐川健一。
32歳になったばかりだ。
佐川は職場でキーボードを叩いていた。
定時後の19時すぎ、ふいにサーバの負荷が上がったため、一体どうしたことかとアクセス状況を調べていたのだ。
オールチケットオンライン、通称OCOというチケット販売サービスのサーバに、アタックがきていた。
佐川がプロジェクトリーダーを務める案件なだけに、気にはなった。
とはいえ、いつものことだ。
アタックはドメイン以下の、
/profile/display
に向けられていた。
ログインした会員が自分の会員情報を表示するページ。
アクセス元は、カナダのIPだ。
アタックの内容は、典型的なSQLインジェクション。まあ、ありふれている。
――しかし、負荷の上昇が気になった。
普通、SQLインジェクションのアタックがあったとしても、よほど大規模なものでなければ、負荷上昇までは引き起こされない。
というか、負荷を上げてしまうとアタックがバレて警戒されるため、ひっそりとやるのがセオリーのはず。
なのに、なぜ負荷が上がっているのか。
なにか、おかしなことでも?
いいや、気のせいだ。どうせありきたりなアタックだろう。入力チェックで止まっているはずだ。
そう考えつつ、佐川はログからアタックコードをコピーして、試験用のアタックプログラムに設定した。
さて、どこのハッカーか、はたまた攻撃用プログラムか知らないが、お前の投げた爆弾の威力を見てやるよ。くだらない。
人間は生きる中で、荷物を増やしていく。
荷物には、物質的なものもあれば、精神的なものもある。
行商人でもない限り、荷物は増える一方だ。
持っているから、こだわる。
持っているから、恐れる。
持っているから、失う。
だからこそ人は、財産や家族を守るのだが、それも簡単なことではない。
ときに、守るために殺し、守るために死なねばならない。
守ることは、簡単なことではない。
それが事実だ。
藤野由加里は行きつけのバー『フル・ムーン』のカウンターに座っていた。
仕事が早めに片付いたのもあり、たまにはゆっくりしようと、繁華街に来ていたのだ。
眼前には磨き抜かれたグラスが吊るされ、奥のラックには、ジンやテキーラのビンが並ぶ。初老のマスターは目を細めてピックを握り、アイスボールを削っていた。
カウンターにはオレンジ色の照明が落ちて、木目のニスが光った。カウンターの入り口側の方にはハンティング帽の男、背後のテーブルは3つとも満席だ。
そのとき、由加里はスマートフォンのバイブに気づいた。ここ数ヶ月、マナーモードを解除したことはない。着信音ほど嫌いな音がないのだ。
かけてきたのは、同僚の佐川だ。2つ年下の、どこかまだ頼りないエンジニア。
しかし、なぜ個人の電話でかけてきたのだろう。会社からではなく。個人的な用事なのだろうか。個人的な用事……。
複雑な気持ちで、由加里は電話に出た。
やがて、佐川の話を聞くうちに、酔いは醒めた。
由加里は言った。
「間違いないのね? 本当に」
「……はい。漏洩しました。どう見ても。僕が見たところ、成立するアタックコードでした。出てきたんです。自分の画面に、他人の会員情報が……」
「わざわざ携帯からかけてきたってことは、まだ誰にも言ってないってこと?」
「そうです。まだ、誰にも……」
佐川の言い方には、含みがあった。
暗に、『なんとかして、揉み消すこともできます』と言っているようだった。
由加里は悩んだ。
しかし、隠ぺいに失敗したときの信用失墜は計り知れないし、そんなインモラルなことをする気にはなれなかった。
OCO案件の営業担当である由加里は、ふいに、断崖絶壁に突き出された気分におちいった。
進むも地獄、戻るも地獄というわけだ。
「残ってる社員はいるわね? みんなに事情を話して、少しでも被害の縮小に努めて! わたしも、社長にすぐ相談するからっ!」
由加里は佐川との電話を切って、すぐに社長の大島にかけた。
店のマスターはなにも聞いていない様子で、アイスボールを削っていた。
マスターのアイスボールは完全な、美しい球体に近づいていく。いつかは融けて壊れて、水に戻るというのに、マスターはそんなときのことなど考えていないようだった。