人工知能と人類の関係性を考える本シリーズ。
今回は古代ギリシャから続くゾンビ問題を通して、『ロボットに心を与えられるのか?』というテーマについて考えてみた。
機械学習や人工知能の技術が進展する昨今、人間は心や自我や意識の秘密を解明して、ロボットに命を吹き込むことができるのだろうか?
目次
- 目次
- 医療の超高度化とロボット
- ゾンビたちの宴
- 肉体と意識と心
- 運動的ゾンビ
- 哲学的ゾンビ
- 科学と宗教
- プラトンの失敗?
- ソクラテスの失敗?
- 人類が悩んでいること
- それでロボットの心の話は?
- 現代の二元論
- 二元論以外のアプローチ
- まとめ
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医療の超高度化とロボット
日本は高齢化社会と言われて久しく、いまだに平均寿命は上がり続けている。
今後、ナノマシン、人工血液、人工臓器などが実用化されると、ますます人間の寿命が伸びてゆくだろう。
さらにレイ・カーツワイルは『シンギュラリティは近い』の中で、医療技術について驚異的な未来予言をしている。
なんと、シンギュラリティが訪れると、『脳のアップロードによる意識の保存』『ナノマシンや遺伝子工学による人体のバージョンアップ』などが実現すると言うのだ。
未来においてロボット(機械)と人間の境目はなくなる。
こうなってくると、生命や心の本質とはなんなのか、考えざるを得ない。
人間とロボットが共存&融合する未来を控える今だからこそ、『心』について考えておくことは有意義だと思うのだ。
ゾンビたちの宴
生命の実体とはなにか?
ロボットと人間の違いとはなにか?
この問題は、古代から人類を悩ませてきた。
生命の実体についての問題は、今でも『哲学的ゾンビ問題』として知られている。
哲学や認知科学の世界は、ゾンビに支配されているとも言える。
もはや生身の人間はいなくなり、ゾンビだけが大手を振って形而上を歩いているわけだ。
Photo credit: Looking Glass via Visual hunt / CC BY-SA
肉体と意識と心
ゾンビの話を掘り下げる前に、肉体と心の問題を考えてみる。
以前より哲学者たちは、人間や生き物を分析する中で、『肉体と心を別々に考えるべきか』『そうだとしたら、両者の関係はどうなっているのか』ということについて考えてきた。
心身二元論の萌芽は古代ギリシャのプラトンやアリストテレスに見られるが、それを明確化したのはデカルトだ。
さらに近年になると、医学や科学が発展したことで、脳や神経の仕組みが解明されてきた。
その結果人類は、科学的に検証できた心の領域を『意識や思考』として括り、手がつけられない生命の根幹の部分を『魂』というブラックボックスに押し込んだ。
(肉体と意識と魂のうち、魂のみを分ける、という新しい二元論)
簡単にまとめると、
『古代は、体と心を分けた』
『現代は、体&意識と魂を分ける』
といった具合だ。
運動的ゾンビ
古代の人々は、「人間以外の動物にも、人間と同じような心や魂があるんだろうか?」と疑問に思っていた。
さらに、機械と動物は、本質的に同じものではないか、という考え方もあった。
以下はその例題だ。
飼い主も気が付かないほどその犬が精巧だったら、本当の犬と作り物の犬を区別する理由がないのではないのか。
だとすれば、人間が本当の犬だと思っている存在は、本当に犬なのだろうか?
外から見た行動が犬そのものだったら、本物の犬と機械的な犬と見分けがつかないのではないか?
こういうことだ。
さらには、人間自体についても機械ではないと断言することはできない。
このような考え方で想定される心がない生物を、『運動的ゾンビ』と呼ぶ。
古代ギリシャのプラトンはイデア論によって、現実世界の虚構性を指摘した。
このイデア論が、ゾンビ問題に関わるはじめの哲学だとも考えられる。
哲学的ゾンビ
科学技術の発展とともに認知や神経の仕組みが解明されてきた。
そして昨今では、人間と動物の神経系の構造に共通点を見い出せるようになった。
すると、人間だけに心などの内面があり、動物には心がないという考え方は合理的ではなくなってきた。
そもそも、生き物の内面をひとくくりに扱うことに無理があった。
そこで、近代の哲学では、『心を意識と魂に分けて考え、ブラックボックスである魂とを切り離す』
というアプローチを取るようになった。
すると今度は、『行動や認知や意識の仕組みは科学の対象とできるが、生物と魂の関係が分からない』という問題が発生し、結局はゾンビ問題が再発してしまった。
「今までは思考力があるのは人間だけだと思っていたのに、動物や虫も思考システムがある! しかも、将来は思考システムを全て人工的に作れそう! ならば、人間が機械 じゃない保証がない! いや、魂だ。この体のどこかに魂があるんだ。そして僕らは、意味があって生きているんだ! そう思いたい! 僕らは機械じゃないん だよー!」
ここで生まれたゾンビは、『哲学的ゾンビ』と呼ばれる。
(哲学的ゾンビについては、クオリアという、認識の質に関する問題も議論の中心にある)
さて、デカルトは哲学的ゾンビの問題に対して、少なくとも自分自身に存在する自我らしきものを頼りに、『コギト・エルゴ・スム(我思うゆえに我あり)』を提唱し、とりあえず自分だけは魂があることにした。
ともかく、人類は生命の探求をするうちに、自分たちがゾンビになってしまった。
科学と宗教
以前の記事で僕は、合理主義が人類にとって役立った一方、人間を追い詰める思想でもあることを書いた。
これまでの因果律による考え方は、今の文明を築くのになくてはならないものだったことに異議はない。
しかし、今まで必要だったものがずっと必要であるとは限らない、というわけだ。
『科学的』『宗教的』という二つの言葉は対立した逆の概念だと思われていたのだが、本当は、科学も宗教も、『因果律による硬直的な思考法』という点で同じなのだ。
(僕はこれらを否定しているわけではない! 人一倍、科学の恩恵に浴している)
しかし、未来の生活を考える上では、従来の考え方を見つめ直す必要もあるように思われる。
プラトンの失敗?
今後の医療と科学技術の発展の先には、ゾンビ問題=生命の尊厳の問題が横たわっている。
ここでゾンビ問題について考えると、まず、プラトンあたりが『現実の虚構性を指摘しはじめた』のが問題の発端であるようだ。
ソクラテスは『無知の知』を説く中で、真の知の存在を、到達不可能な神秘として扱った。
こうしてソクラテスは、人間の思考力の脆弱さを指摘するとともに、知に向かう姿勢の大切さを説いた。
その後プラトンは、ソクラテスの想定した真の知を『イデア』として定義した。
プラトンは不完全で不合理な現実に耐えられなかったのだ。
このように真の知をイデアとして分離したことで、知と真理は現実から切り離され、人間が到達すべき遠い目標となった。
良くも悪くも誤謬と迷信が渦巻いていた古代哲学の世界に、ソクラテス&プラトンの師弟が理論のメスを入れた形になる。
(アリストテレスは、さらに合理的な考え方を発展させた)
このプラトンのイデア論については、『現実の虚構性と真存在の対比』という点で、様々な宗教哲学との共通点が見られる。
(大乗仏教の色即是空。シャンカラの不二一元論。ドイツ神秘主義など)
この『現実の虚構性と真存在の対比』哲学には、だれも否定できない、という特徴がある。
ソクラテスの失敗?
ソクラテスは人間に対して悲観的だった。やはり僕はそう思う。
結局ソクラテスは、人間や自分の英知を信じられず、その代わりに、英知に向かうモチベーションを信頼することを落としどころとしたのだ。
そんな『無知の知』の哲学には、ポジティブな面(未知への探求心)と、ネガティブな面(人の知性への不信感)がある。
現代の科学は無知の知の思想(仮説を立てて疑って実証する)によって成立してきたが、僕らはそのネガティブな面も受け継ぐことになった。
このようにして、真理と迷信を峻別することで生じた人類の病は、ソクラテスから発祥した。
人類が悩んでいること
ここまでの話を整理すると、
- 古代に科学に対する姿勢が出来上がった
- 人間は知性を否定する。同時に機械ではないことを信じたい
- 知性の否定と魂の肯定。これは矛盾する
- 結局、人間には心があるのかないのか、どっちだ
- だいたい、心ってなんなんだ
- 心を意識と魂にわけよう
- なら、魂やクオリアってなんなんだ
こんなことが問題になっている。
それでロボットの心の話は?
科学技術によって、心があるかのようなロボットを作成できても、そのロボットと接した人が『人間と同様の魂が宿っている』と感じなければ、『本当の意味で、ロボットに心が宿っている』とはされない。
このため、ロボットの認知や思考の機能を精巧に作っても、それが心であるか、というのは哲学的な問題になってしまう。
やはり、心や魂の実体をはっきりさせるのが今後の命題になってくる。
(人によっては位牌やお墓に人格や知性を与えて、それと対話する人もいる。この場合、当人にとっては位牌やお墓が知性なんだろうか? これは極論だが、無視できないテーマだ。結局は、あるものに心があるかどうかというのは、人間の思い込みでしかないのか?)
現代の二元論
近年でも魂について、脳科学や神経科学、精神医学や量子力学の観点から様々な考察がされている。
第一線の科学者たちが、魂や死後の世界の解明に取り組んでいるのだ。
これらの考察の結果が、諸宗教や神秘主義の世界観に近づいていく理由は、この記事の読者ならお分かり頂けるだろう。
それは、宗教と科学が同根のものであるからだ。
その証拠と呼べるか分からないが、臨死体験や神秘体験に接した医療従事者は、決まってスウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の書籍に書いてあるようなことを証言する。
エマーヌエル・スヴェーデンボーリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)はスウェーデン王国出身の科学者・神学者・神秘主義思想家。スヱデンボルグとも。しかし多くはスウェーデンボルグと表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
二元論以外のアプローチ
たいていの人は、生きている意義を確認したいがために魂の実在を求めるが、その前提が思考の足枷になるのも事実だ。
こうなれば、
『人間は機械であると認める。幻覚に惑わされず、限りある命をまっとうする』
『宇宙レベルの巨視的エコシステムの一部としての哲学を持つ』
という解決方法もある。
事実、ネイティブアメリカンや古代の日本人などは、『人間とその魂は、巨大なエコシステムの一部である』という考え方をしていた。
また、こういった考え方は汎神論やアニミズムといったテーマとして、従来より議論されてもいる。
こうした巨視的な命の捉え方は、因果律的な二元論と対照する考え方になる。
また、近年のスピリチュアル業界では、自然との一体感を尊重する、『ワンネス』という考え方も広がっている。
まとめ
今回はロボットに心を与えられるのか?
という問題について、いったん古代へさかのぼって考えてみた。
その結果、話が広がりすぎて頭がショートしそうになった。
しかも、あまりロボットっぽい話にならなかった。(謝罪)
それにしても、心について考えるにしたがい、そもそも『心』というものの定義が分からなくなっていった。
そんな心を解明するには、意識と魂を解明しなければならない。
行き当たったのは、以下の二つの選択肢。
『魂をトコトン追求する』
『あきらめてワンネス』
この二つの選択肢の間を揺れながら、まだまだ人間は前進&苦悩しなければならないのだろうか?
人間はなんて面倒な生き物なのだろう。
それではまた。
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