「死後の世界」を論じる宗教はたくさんあるが、ここまで「死自体の意味」を掘り下げた経典があっただろうか。
仏教経典のひとつ「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」は、ブッダの死をトコトン考える死の哲学だった。
それでいて、やがて死にゆく僕らに向けた、純度の高いモルヒネ的な経典でもあった。
釈尊の呼称について
下記の3つ全てが釈尊をさしている。
「釈尊」「釈迦」「シャカ」
一方で、「仏」「如来」「仏陀」「ブッダ」については、後述の阿含経典では釈尊のみをさし、大乗仏教では釈尊を含む諸仏をさす。
涅槃経について
『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう、梵: महापरिनिर्वाणसूत्र(Mahāparinirvāṇa Sūtra、マハーパリニルヴァーナ・スートラ)、巴: महापरिनिब्बानसुत्तन्त Mahaaparinibbaana Sutta(nta)(マハーパリニッバーナ・スッタ(ンタ))は、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいはつねはん))を叙述し、その意義を説く経典類の総称である。阿含経典類から大乗経典まで数種ある。略称『涅槃経』。
大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。
Wikipediaでは上記のようになっている。
要点は、「釈迦の入滅を叙述し、その意義を説く経典類の総称である」という箇所だ。
なお、般若経や大乗仏教について理解しておいた方が本稿を楽しめるので、以下の記事もおすすめだ。
そんな涅槃経だが、阿含経(あごんきょう)と呼ばれる古い経典に属するものと、大乗仏教に取り込まれたものがある。
以下ではその詳細を述べたい。
まずはじめに涅槃について
涅槃 (ねはん、サンスクリット語: निर्वाण, Nirvāṇa; パーリ語: निब्बान, Nibbāna 、プラークリット: णिव्वाण,ṇivvāṇa 、タイ語: นิพพาน, Nípphaan; ベトナム語: niết bàn)は、仏教の主要な概念の一つである。
涅槃とは、かんたんに言うと「仏教における本当の死=悟り」という意味だ。
また、ひとまずは解脱(げだつ)ともほぼ同義と考えて問題ない。
元来の音は、ニルヴァーナであり、「ねはん」はその音訳だ。
![]() イン・ユーテロ [ ニルヴァーナ ] |
※ニルヴァーナというアメリカのロックバンドがあった。上記はイン・ユーテロというアルバムだ。本当はネヴァーマインドを載せたかったが、写真的にアレなのでやめておいた。
阿含経について
阿含経とは、以下のようなものだ。
『阿含経』(あごんきょう、あごんぎょう、梵・巴: āgama, アーガマ)とは、初期仏教の経典である。「阿含」とは、サンスクリット・パーリ語の「アーガマ」の音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。
大乗仏教が作られはじめたのが1世紀だったことに対し、阿含経は紀元前4世紀から紀元前1世紀に成立した。
また、阿含経は大乗仏教の教えよりもシンプルで、釈尊が布教をはじめた頃の教えに近い内容であるとされている。
阿含経における「涅槃経」
阿含経典類に含まれる涅槃経は、主に釈尊が涅槃に至るまでの最後の旅や、その行動などが描写されている。釈尊の死の意味を掘り下げる、というような意味は薄い。
そもそも釈尊は、
- 法=真理=この世の摂理は永遠であるが
- 自分は死んでしまう=無常の身である
と宣言していた。
また釈尊は、「自分が悟りを得てブッダになった」ことは宣言しても、永遠であるとは述べていない。
大乗仏教における「涅槃経」
不滅であってほしい釈尊が死んだことに対して、幾世紀もかけて意味づけを行い、規模が膨れあがったバージョンだ。これについて次節より詳しく説明する。
ブッダの死は後世の信者を悩ませた
大乗仏教が存在しなかった当初、苦しい生活を送る民衆は、仏教に救いを求めた。
しかし、部派仏教の教えだと、大変な修行をしなければ救いがもたらされない。
俺たちには救いがないのか。そんなの嫌だ。
そう思った人々は、持たざるもののための仏教=般若経を中心とする大乗仏教を作った。
そこで、「空」的な死生観を説明するために、涅槃経が利用されていった。
また、大乗仏教においては、釈尊の「死」をどうするかが問題となった。
なぜなら、修行によって悟りを得られるというのに、「ただ単に死んでいなくなってしまう」のなら、救いなどないと考えたからだ。
だから、釈尊の死について永遠性を与える必要があった。
釈尊不滅の三段論法
大乗仏教の信徒にとって、釈尊は絶対的な存在だった。そのため、以下の論法で釈尊を不滅化したかった。
- 悟りを開いて仏になったものは無限の存在となる
- 釈尊は悟りを開いた
- ゆえに釈尊は無限の存在となる
それなのに釈尊が死んでしまったことは、信者にとって色々な意味でショックだった。
信者たちは死んで消えてしまうのが怖かったのだ。
そこで信者は考えた。
「どうにか、釈尊が死んでいないことにできないだろうか」
そこで生まれた「死んでいない」説
大乗仏教の涅槃経では、以下のような理論でブッダの永劫性を説明している。
- 本当の釈尊は形のない高次元の存在で、肉体は擬似的な乗り物だった
- 本当の釈尊は十方世界(仏教的な大宇宙)で見守ってくれている
- だれでも悟りを開けば十方世界(仏教的な大宇宙)にいける
大乗仏教の成立過程を想像してみた
僕の考えになるが、大乗仏教の根本において、「死んでしまって消えるのは嫌だ」という思想があるように思えた。
つまり、以下のような発想の連鎖により、大乗仏教の涅槃経が発展してきたのではないかと思っている。
- 自分が死んでしまうのはいやだ!
- みんな一緒だから仕方ないと考えよう
- 人間どころか、草木や動物、この世の全てがそうなんだ
- だから、基本的にこの世は「空」と考えよう
- 全部意味ないから、悩むのもムダ。なにもないない
- でもさ、それでも死ぬのは怖いよね
- やっぱり、死後の世界は楽園であってほしいよね
- だったらさ、悟ったら「ふわっとした感じ」で楽園にいけることにしよう
- つまり、「空」の解釈によっては、「ふわっとした感じ」で楽園を設定できと思うんだ
- なにもないんだけど、空なんだけど、そこには永遠がある、的な
- でもさ、結局、悟らないと楽園にいけないよね??
- とはいえ人間ってすぐに死んじゃうよね??
- 一回死んだらもう楽園に行けないってこと?
- 消滅しちゃうってこと?
- それって最低すぎない?
- だったら、なんども悟るチャンスがほしいよね
- 生まれ変わることにすれば、なんどもチャンスがあるよね
- 生まれ変り続けて、いつか悟ったら永遠になれるって考えれば安心できるね
- ついでに、楽園の世界観とか、地獄の世界観とかも定義していこうよ
- なんかさ、いろいろ超複雑になっちゃったね
- でも、考えていると死ぬことを忘れられていいよね
- この考え方を使っていこう! < 今ここ
なお断っておくと、原典の阿含経では霊魂や輪廻転生について、呪術的なタッチで説明されている。
しかし、ここではそういったレベルまで修行を積んでいない、民衆の感覚を想像してみた。(霊魂や呪術が実在するのか、というのは別問題として)
涅槃経はモルヒネ
仏教をはじめ、諸宗教は僕らにやさしい。
それを信じていると、生きている苦しみや死ぬ苦しみを低減してくれる。
死生観の哲学があるからこそ、僕らは苦しみや死の恐怖を乗り越え、あるいは忘れて生きていられる。
まるで宗教哲学は、心に怪我を負った僕らに処方される、モルヒネみたいなものだ。
そんな諸宗教の中でも、「悟りと死の意義」を哲学する涅槃経は、「純度の高いモルヒネ」だと思う。
涅槃経をはじめ仏教哲学は実に面白く、救いに満ちているが、僕のような凡人にはなかなか手に負えない。
考えることに集中しすぎて、薬物中毒にならないようにしたいものだ。
まとめ
今回は仏教経典の一群である、涅槃経について解説した。
なお、この記事については、読み物としてのおもしろさを重視したものとなっている。
もし仏教や涅槃経に興味を持ってもらえたら、専門書などを参照して頂きたいと思う。
参考文献
「大乗仏教入門(大蔵出版 勝又俊教、古田紹欽編)」他