世界三大宗教のひとつである仏教(般若経)には、中心に「色即是空」の教えがある。
色即是空(しきそくぜくう)とは、般若心経(はんにゃしんきょう)の一節であり、大乗仏教を象徴するフレーズでもある。
般若心経は古来より伝承され、現代でも多くの仏教宗派で重視されるだけでなく、一般庶民にも広く親しまれている。
本稿では、そんな般若心経の意味と、般若心経が現代まで伝わった理由について解説したい。
目次
- 目次
- 色即是空と般若心経
- 般若心経の解説
- 観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
- 舎利子。
- 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
- 受・想・行・識亦復如是。
- 舎利子。
- 是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
- 是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
- 無眼界、乃至、無意識界。
- 無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
- 無苦・集・滅・道。
- 無智・亦無得。以無所得故、
- 菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
- 心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、
- 遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
- 三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
- 故知、般若波羅蜜多、
- 是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
- 能除一切苦、真実不虚。
- 故説、般若波羅蜜多呪。
- 即説呪曰、
- 羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶
- 般若心教
- 現代まで般若心経が残る理由
- まとめ
色即是空と般若心経
色即是空について
色即是空とは、般若心経というお経の一節だ。
『色即是空』というフレーズは、『空即是色(くうそくぜしき)』というフレーズと対になっており、それぞれ以下のような意味がある。
- 色即是空:万物(色)を本質的に突き詰めると、実体は存在しない(空)と考えられる
- 空即是色:なにもない所(空)に、意味づけと認識によって存在(色)を見出すことができる
この対になる哲学が、般若心経の本質であり、大乗仏教の本質である。
また、『空』についても説明しておきたい。
空とは無と同じではなく、数字の『0』が確固とした数字であるように、『空』もまた、確固とした存在(状態)なのだ。
そのため、以下のような図式で表すことができる。
- 「1以上」:有(部派仏教で言う実体)
- 「0」:空
- 「 」:無
と、このようになる。
背景としては、インドで発祥した0という数字の概念を考えるとよい。
0-9の数字による数の表現は、世界でもっとも合理的で使いやすいものだ。
また、0があることで、多くの桁の数列を、矛盾なくわかりやすく表現できる。
少し観念的な説明をすると、「0は、可能性として存在していながら、空を示している」と言える。
釈迦は修行の中で、この世における苦しみは認識の問題に過ぎず、苦しみやこだわりの実体は存在しない、と悟った。また、その悟りを象徴的に、空という言葉で表したのだ。
空の極意は、諦めと無感覚によって命を投げ打つということではない。むしろ、様々な人間的な苦しみや悩みを全身で受け止め、その上で真理を知るがゆえに、苦しみに捉われず未来を見つめ続けることにある。
また、心をオープン(空)にして、あらゆることを学びとれるようにせよ、という教えでもある。
近代科学との比較
色即是空の教えについて近代的な捉え方をすると、『あらゆる認識は感覚器が脳に伝えた信号にすぎず、本質的なものではない』『思考は脳内の電流によって発生する』などという、認知科学的な思考実験のようでもある。
他にも、空と色の関係は、量子物理学の対生成・対消滅の理論に重ねることもできる。
こう考えると、釈迦は哲学と思考によって、近代物理学にも通じる世界の法則に迫っていたのかも知れない。
般若心経の位置付けについて
般若心経とは、全部で260文字強からなる、短くも奥の深い経文だ。
般若心経を正式な名称にすると、『般若波羅蜜多心経』となる。
さらに教派によっては先頭に『摩訶(まか=偉大なる)』や『仏説(ぶっせつ=仏が説いた)』という言葉を付けて、『摩訶般若波羅蜜多心経』と呼ぶこともある。
あるいは、省略して単に『心経』と呼ぶこともある。
なお、ここで言う『心』とはすなわち『芯』であり、大般若経の中心的な存在であるという意味だ。
また、大般若経とは大乗仏教の中心となる般若経の経典類の総称で、600もの経典からなっている。
こうした大般若経の真髄を凝縮したものが、般若心経であるわけだ。
般若経の語義
『名は体を現す』のが世の習いであるが、とかく経典に限らず、小説や映画のタイトルはよく内容を象徴しているものだ。
そこで、般若心経の元となる、『大般若経=大般若波羅蜜多経』の語義について説明したい。
般若
般若とは、パーリ語(南伝仏教経典で使われる言語)の『パーニャ』という言葉の音訳だ。パーニャとは、日本語で表現すると、『真の智慧』といったものだ。
パーニャは、
- 仏教宇宙の法則そのもの(存在としての真理)
- 悟りを開いた菩薩の智慧(心の真理)
の両面を持つ、仏教世界観独特の『真理』だ。
パーニャという言葉に関わらず、一部の言葉は、安易に翻訳してしまうと意味が変わってしまうため、昔のお坊さんたちは、『この部分は大切な箇所なので、語義をきちんと調べて、理解してください』という意味を込めて、音訳のままにしたのだ。
まとめると、般若とはパーニャの音訳で、近い日本語で表すと『真の智慧』という意味である。
波羅蜜多
波羅蜜多とはサンスクリット語の『パーラミター』またはパーリ語の『パーラミー』の音訳で、日本語では『彼岸(ひがん)に至る』という意味になる。
仏教では、生きている人間たちが暮らす世界は此岸(しがん)と呼ばれ、仏や菩薩の暮らす理想世界は彼岸(ひがん)と呼ばれる。
そのため、『パーラミター』と言う言葉には、『苦しみに満ちた此岸から、理想世界である彼岸へ辿りつく』という意味がある。
同時に、『完全なもの』『最高なもの』という意味もある。
なお、こちらの岸とあちらの岸、という考え方のベースには、インドのガンジス河がある。
原初仏教経典の『阿含経』においては、釈尊が活動したインドの描写があり、かつ、インド人の精神性を象徴するガンジス河が登場する。
釈尊は雄大たるガンジス河の流れに、生命の来し方行き方を考えたのだ。
日本に山や海に対する信仰があるのと同じように、釈尊も人間を取り囲む自然=ガンジス河に対して、宇宙を見出したのだ。
経
経とは、原語のスートラという言葉を訳したものだ。
聖者や聖人の教えのことを経と呼び、仏教経典では主に、釈尊の教えということになる。
経とは元来、縦糸のことを指す言葉だ。インドの教えの書かれた経典が、縦糸によって縦に連なることから来ている。
大乗仏教と上座部仏教
紀元前6世紀に釈迦が仏教を興してから、出家した信者たちがその教えを守っていった。(出家=家族や財産を捨てて修行の生活を送ること)
しかし、貧困に苦しむ民衆にとっては、仏教の教えは敷居が高かった。
生活や家族を抱えながら、原理的な(ストイックな)出家生活を行うのは不可能だからだ。
そこで、1世紀頃に在家信者が中心となり、空の教えを重視した般若経が作られはじめた。この取り組みは、大勢が救いの教えに乗れるという意味で、『大乗仏教』と呼ばれる。
一方で、出家信者が取り組む古来的な仏教は、『上座部仏教』『部派仏教』などと呼ばれる。
釈迦(釈尊)について
ここであらためて釈迦についてまとめておく。
まず、釈迦(しゃか)は以下のような呼び名(記載方法)がある。
『シャカ』『釈尊(しゃくそん)』『ゴータマ・シッダールタ』『悉達(シッダールタ)』
いずれも釈迦を指す。また、『ブッダ』『仏陀』『仏』『如来』については、初期経典では主に釈迦のみを指し、大乗仏教では釈迦を含む解脱した諸仏を指す。(その他にも釈迦の呼び名があるが、それらを総称して、如来十号とされている)
龍樹について
1世紀に大乗仏教が発祥したものの、『空』を中心とした般若経は、まだまだ実践が難しいものだった。(結局は、出家をしないと悟りにたどり着けないのでは、という矛盾)
そんな中、2〜3世紀頃のインドに、龍樹(ナーガ・リュジュナ)という学者が現れた。
龍樹は自著『中論』において、『縁起思想による空の説明』を行った。
この縁起思想によって大乗仏教の信者たちは、
- 原理的な取り組みとして、空の理解により悟りへの道を追求するという建前
- 現実的な取り組みとして、物事にとらわれず中道の精神で正しく生きる
という、2つの指針を手に入れることができた。
その後の4〜7世紀頃、大般若経を集約した、般若心経が成立した。
縁起思想について
仏教における縁起思想とは、『別々に見えるものが本質的には相互に関連し合っている』ということを象徴する思想だ。
『因縁(いんねん)』と呼ばれることもある。
当初、釈迦の唱えた縁起の考え方は、『煩悩があるために苦が発生する』という精神的なもので、『此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)』と呼ばれる。
(さすがに一般人にとっては、完全に煩悩を捨てないといけない、というのはストイック過ぎた)
それ以降、縁起思想は時代とともに多様化、複雑化していった。
例えば龍樹は、縁起思想を拡大解釈した『相依性縁起(そういしょうえんぎ)』を唱えた。
この縁起思想は、以下のような考え方だ。
『万物は別々に存在しているように見えて、実はあらゆるものが相互に依存・関連し合っている。浄があるから不浄を知ることができるし、不浄があるから浄を知ることができる。浄のみを切り取ることも、不浄のみを切り取ることもできない』
※この龍樹の思想の解釈にも諸説ある
仏教の歴史まとめ
ここまで触れた仏教の歴史について、時系列で簡単にまとめる。
- 紀元前6世紀:仏陀(釈迦、釈尊)が仏教を作った
- ~1世紀まで:出家信者が中心となり、原理的な取り組みをした。これを部派仏教と呼ぶ
- 1世紀頃:在家の信者たちでも取り組める大乗仏教と、般若経が作られはじめた(実体を重視する部派仏教に対して、般若経は空を強調した教えとなった。般若経は大乗仏教の中心となった。また、大乗仏教では金銭のお布施を認めた)
- ~2世紀:空の哲学はなかなか完成しない(扱いが難しく、実用レベルで落とし込めていない)
- 2~3世紀:龍樹(ナーガリュジュナ)というインドの学者が、著書「中論」において、縁起という概念で空を説明した
- 4世紀~7世紀:長大な般若経を要約した、般若心経が作られた(成立時期は諸説あり)
般若経以外の経典の紹介
大乗仏教には、中心となる般若(心)経の他にも経典がある。
いずれも大乗仏教の教えを様々な角度で表現した、奥の深いものだ。
以下ではそれらを、簡単に紹介する。
- 維摩経:在家信者でありながら、仏弟子たちと対等以上の問答を行う維摩居士という人物について記された経典
- 法華経:詳しくは妙法蓮華経と呼ぶ。色心不二の思想による、宇宙の法について記された経典
- 華厳経:詳しくは大方広仏華厳経と呼ぶ。仏に至るまでの修行の段階を描写した経典
- 大無量寿経:阿弥陀仏による救済と浄土について記された経典
- 涅槃経:釈尊の晩生と入滅を描写した経典
- 梵網経:詳しくは『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』と呼ぶ。(ここでいう梵網経は、本来の梵網経の一部を抜き出したもの)善悪や戒律について記された経典
- 大日経:修行による菩提心(善なる本性)の展開について記された経典
般若心経の解説
以下は般若心経の本文である。
仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智・亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経
これを部分ごとに解説していく。
般若心教は、舎利子(シャーリプトラ)に教えを語る形式になっている。
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
慈悲深い観音菩薩(釈迦の高弟)は釈迦や弟子たちと、悟りの教えについて深く瞑想していた。そのとき観音菩薩は、肉体や感覚の全てが『空』であると気がついた。また、その悟りが一切の苦しみを克服して、この世に幸福をもたらした。
舎利子。
シャーリプトラよ。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
色(しき)は空と異ならない。空は色に異ならない。色は空である。空は色である。
(色とは、物質や意識全ての存在。色を突き詰めて考えると、確固とした存在や形などは定義することはできない。そのため、万物は常に空であることと変わらない。同時に、空に対して認識することで、人間は意味や形を見出すことができる。万物は幻であり、また実体でもある)
受・想・行・識亦復如是。
あらゆる感覚や心の働きも同じことが言える。
舎利子。
シャーリプトラよ。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
般若教の考え方においては、なにかが生まれることも滅することはない。汚れているとか、浄いということもない。増えることも、減ることもない。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
ゆえに空の中には、色もなく、思考活動もなく、五感もなく、法すらもない。
無眼界、乃至、無意識界。
視覚の仕組みや意識の仕組みなどを定義する、いわゆる16界の教えもない。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
無明にはじまり老死におわる、12因縁もない。
(12因縁とは、人生を生きる上で避けられない様々な苦しみのこと)
無苦・集・滅・道。
苦諦、集諦、滅諦、道諦もない。つまり、苦しみも、苦しみが集まってくる理由もない。涅槃も、涅槃に至る教えについても、本質的には実体がない。
無智・亦無得。以無所得故、
智慧もなければ、なにかを得ることもない。なぜなら、得られるものがどこにもないからだ。
(ゆえに、智慧のない、持つ力のない、持たざる者として自分を戒めよ)
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
菩薩(悟りを求める高弟たち)は悟りの教えのおかげで、
心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、
心に罣礙(汚れや滞り)がなく、だからこそ、なにごとも恐れない。
遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
妄想や幻覚から離れて涅槃(悟りの境地)へ至るだろう。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
過去現在未来(三世)のあらゆる仏たちは、悟りの教えによって、『最上の正しい智慧(アヌッタラ・サミャク・サンボーディン)』に至ったのだ。
故知、般若波羅蜜多、
だからこそ理解しなさい。悟りの教えの言葉を。
是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
大いなる神なる言葉を。大いなる明るき言葉を。この上ない言葉を。並ぶものがない言葉を。
能除一切苦、真実不虚。
この言葉は真実だからこそ、一切の苦しみを除く。
故説、般若波羅蜜多呪。
ゆえに悟りの教えの言葉を唱えるのだ。
即説呪曰、
観音菩薩は唱えたのだ。
羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶
ガテイ、ガテイ、パーラガテイ、パーラサンガテイ、ボージ、スワーハー
(道を往く者よ、道を往く者よ。真理の道を往く者よ。真理との合一を目指す者よ。悟りの成就を祈る)
般若心教
こうして観音菩薩は般若心経を説き終わられた。
現代まで般若心経が残る理由
現代まで般若心経が残っているのは、だれも否定できなかったからと言えるかも知れない。
言うなれば般若(心)経とは、あらゆる思想への取り組みを「こだわり」であるとみなす、思想のブラックホール的な存在である。
「すべての知覚や感情をリセット&中和するところからスタートし、悟りを目指す」という視点に立った人から、「あなたの理論はこだわりすぎだ」と言われたら、だれも否定することができない。
つまり般若経とは、諸哲学の上に立ち、「哲学とはこうあるべき」と言っている教えでもあったのだ。
現代に伝わる様々な哲学では、『存在』とはなんなのか? 『自我』とはなんなのか? ということを問い続けてきた。
昨今でも、科学の諸分野において、精神や魂の実体についての研究や考察が続けられている。
そんな中に、『虚無性の肯定』『世界の虚構性と真存在の対比』という考え方を投じる仏教の教えは、哲学的に見ても大変意義があるものだ。
まとめ
般若心経が日本人に好まれる理由としては、
- 難しい理論を知らなくても実践できる
- 和の文化に合っている
- 哲学的な奥の深さがある
という点があるのではないかと思う。
そんな般若心経について、僕は以下のように解釈した。
「可能な限り物事を中立の視点でとらえ、なおかつ自分自身で考え続ける。答えがでないのだとしても、その姿勢自体に意味がある」
さて、考えるよりも実践する方が難しい。
これからも僕は無駄に考え続け、無意味なものにとらわれ、苦悶することだろう。
人間にとって、こだわりを捨てるというのはなんと難しいことだろうか。
参考:「大乗仏教入門(大蔵出版 勝又俊教、古田紹欽編)」、「般若心経講義(角川ソフィア文庫 高神-覚昇著)」他
(2016年8月24日 大幅追記)