「避暑地の猫」は、高校生のときに書店で見つけた。
装丁がかわいらしく、タイトルも上品だったため、「ほんのり、ゆるーく楽しめそうな小説だ」と、裏表紙のあらすじをきちんと読まずに買ってしまった。それもなぜか、吸い寄せられるように、だ。
僕はこれまでに、幾度もこの本を読んだ。
はじめて読んだのは高校生のときだったが、当時は衝撃と恐怖に打ちのめされた。
社会人になって読んだときは、さまざまな登場人物たちの哀愁が身に染みた。
そして最近になって読むと、宮本輝の、人間に対するあまりに深い洞察眼に、愕然とさせられた。
緻密に構成されたサスペンスでありながら、恐ろしいほどの人間分析がなされた、文学性の高い作品でもある。
それはそれとして、とにかくおもしろい。おもしろすぎてどんどん進んでしまうのだが、ふと足を止めると、底なしの人間の暗部に引き釣り込まれそうになる・・・・・・そんな作品だ。
僕が高校生のときにこの本と出会ったことが、幸運だったのか悲運だったのかはわからない。なぜなら、この作品のせいで軽く人間不信になり、かつ、一時期は別の作品が幼稚に思えてしまうようになったからだ。
※念のため書いておくが、この記事には”ネタバレ”を含む。これから読むつもりの方は、注意されたし。
![]() 避暑地の猫新装版 [ 宮本輝 ]
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宮本輝について
宮本 輝(みやもと てる、1947年(昭和22年)3月6日 - )は、日本の小説家。本名は宮本正仁。兵庫県神戸市に生まれる。後、愛媛県、大阪府、富山県に転居。関西大倉中学校・高等学校、追手門学院大学文学部卒業。
'77年『泥の河』で太宰治賞、'78年『螢川』で芥川賞、'87年『優駿』で吉川英治文学賞を受賞した。
主立った作品を読んできた僕のイメージとしては、「ドラマティックで、かつ文学性の高い作品を描く、繊細なタッチの作家」といったところ。
現在では芥川賞の選考委員になっており、文壇では「輝爺」と親しまれている。
登場人物
久保修平:本作の主人公。かつて軽井沢の別荘番だった。
久保美保:修平の姉。かつて妖艶な少女だった。
修平の父:戦争で片足を負傷し、農家を辞めて別荘番となる。
修平の母:布施美紀子にいびられながら懸命に夫を助ける。
布施金次郎:別荘の主であり資産家。経営立て直しのため美貴子と結婚する。
布施美貴子:修平の母をこき使う金次郎の妻。大資産家の娘。
布施恭子:姉妹の姉。きつい性格は母譲りか。
布施志津:病弱で不器量な恭子の妹。
絹巻善哉:修平を追い回す刑事。
岩木孝次:布施家のコック。
三浦貴子:布施家の別荘近くに住む令嬢。
猫を抱いた青年:軽井沢で起こる猫探し騒動で、猫を発見する。
あらすじ
修平は喧嘩をして大けがを負い、入院していた。
ある外科医が声をかけると、修平は過去の事件について語り始めた。
舞台は60年代だろうと思われる。
軽井沢の別荘番の一家に生まれた修平は、嫌悪する布施一家が夏にやってくることを疎みながらも、家族の仕事を助けて暮らしていた。
また、修平は軽井沢に時折立ちこめる霧に悩まされていた。霧が深くなると微熱が出て、自分の中の魔性が膨れあがり、欲望を抑えられなくなった。
ある夏、修平は父から地下室の存在を聞き、興味を持った。
その後、七月に金次郎と美貴子と恭子の三人が別荘にやってきた日、美貴子は修平やその母をさげすむ態度をする。
その日のうちに、修平は事故を装って、壊れかけた屋敷の門柱を美貴子に向かって倒し、殺害した。
絹巻刑事の取り調べを受けるも、修平は事故だと言い張った。
ある夜、修平は両親と美保の会話を偶然耳にし、金次郎と久保一家との間に、なんらかの密約があることを知る。修平は地下室と美保を結びつけ、「金次郎が金と引き替えに美保を地下室に連れ込み、手籠めにしている」と思うに至る。また、近々金を受け取って、一家は別荘番を辞めることを知る。
修平は金次郎に詰め寄るも、金次郎は、美貴子殺害の現場を密かに見ていたことを明かし、駆け引きを仕掛けてきた。
後日、修平は金次郎と母親の関係を疑うようになり、美保のみならず母とも密通する金次郎に対し、殺意を抱く。
そこで、ある計画を思いつき、地下室に並ぶワインのボトルに灯油を入れはじめる。密会の現場を押さえ、金次郎を燃やしてしまおうというのだ。
そんなある日、母は修平に真実を語る。
母は金次郎を真剣に愛し、地下室で関係を持っていたこと。美保が中学二年から金で売られていたこと。
そして物語はクライマックスへと転げ落ちてゆく。
母に黙って美保が金を受け取った二日後、修平は恭子を挑発し、地下室に連れてゆく。
そこに金次郎と母が降りてきて金の話をはじめると、修平は母の本音を聞く。母は父のことを、「気味が悪い男」「薄汚い男」と罵ったのだ。
修平は準備してあったワインボトルを取り、自身の母親に灯油をかける。恭子をボトルで殴り付け失神させ、あたりへ灯油をまき散らす。
そこへ父が現れて、修平を外へ逃がす。
「いいか。父ちゃんが燃えてるって言うんだぞ~~おめェは、知らねェ、何も知らねェで通すんだぞ。~~」
地下室は火の海となり、金次郎、修平の両親、恭子は焼死した。
以後、姉とは別離し、修平は孤独な人生を歩む。そんな中、絹巻刑事は執拗に修平を追い詰めてゆく。
ある日修平は仕事場のパチンコ屋で、姉から約束の金の一部を受け取る。
その後、絹巻刑事は病死し、時効を迎える直前に、修平はつまらない喧嘩を売って大けがを負う。
やがて入院中に時効が成立し、感慨と後悔の中、美しい避暑地の光景を思い返すのであった。
妖艶な女たち
当作品の魅力のひとつに、女性の存在がある。
まず、修平の姉である美保は、可憐にして蛇のような狡猾さを持つ。弟である修平に明らかな性的挑発をしたり、胸を触らせたり、その手管は僕ら読者を翻弄して止まない。
弟のババロアの汚い食べ方を見て、
「でも、きれいに食べちゃおうなんて無理よね。お金持ちって、人間をそうやって食べたがるのよ。食べたものが口の中でどうなってるのか考えたり出来ないの。私、お金持ちになりたいわ。口じゃなくてお金で、何もかも食べてやりたいわ」
こんなことを言ってしまう、末恐ろしい少女でもある。
もうひとりの蛇は、修平の母だ。彼女は夫を陰ながら卑しめ、裏切り、金次郎と関係し、金をたかっていたのである。同時に、意図的に布施美貴子夫人に金次郎との関係を悟らせ、美貴子を狂おしい嫉妬の渦中にたたき込んだ、魔性の女だ。
他にも舞台を彩る、原色の、あるいは淡色の女たちが咲き乱れる。
布施恭子は高飛車ながら幼さの残る少女であり、修平を罵倒しては自身の優位を誇示しようとした。その幼稚さがどこか可憐で、切なくもある。
一方、家族と一緒に避暑地へやってきていた貴子という少女は、修平にとっての、真の逃げ場でもあった。性的な接触をするも、最後までいかず、いつも修平は高ぶる自身を制して、貴子を汚すことを恐れたのである。貴子が身を捧げようと誘惑してきたにも関わらず。
霧が立ちこめると、修平は微熱を発して欲望の赴くまま、女を求める。唇を奪ったり、胸を触ったりなどの、児戯に等しいものであったのにも関わらず、避暑地の暗い霧の中では、この上なくエロティックな場面となって作品を淫らに彩るのだ。
語りについて
本作は、鍋野という外科医が修平の回想話を聞くところからはじまる。(ここまでは三人称)
そこから以下のように本編へ入っていく。
久保修平は、鍋野医師に、次のような話を語って聞かせたのである。
本編は修平の一人称で語られ、長い時間を経て、最後に修平が入院する場面に帰着したのちに、一人称のまま話が終わるスタイルだ。つまり、導入部だけの額縁的な構造といったところか。
この、導入部に第三者を介在させる手法は、宮本輝の他の作品にも見られる手法であり、避暑地という異世界へ読者を誘う、クッション的な役割を持っている。
同時に、久保修平の語りが信用できない、といったほのめかしも含まれており、たぶんに意識的な、「信頼できない語り手」を設定している格好になる。
鍋野医師は、初めのうち熱心に医者として聞き耳をたて、やがてひとりの人間として、久保修平の嘘か誠か判別しかねる、告白でもなく懺悔でもなく、ある種の郷愁に包まれた回想でもない、不思議な一夏の出来事に、時を忘れ空腹さえも感じず、一心に耳を傾けた。
こんな具合である。
さて、久保修平の、もっとも信頼できない点とは、なんであったのだろうか。
話の中に、何か嘘が混じっていたのだろうか。
もちろん、ストーリーテラーとして話を盛り上げる煽り文句などが散見されるため、そのあたりを胡散臭いと捉えることもできるだろうが、僕はちょっと違う点に、修平の嘘があると読んだ。
ペルシャ猫は作品哲学の中心であり、嘘に対する真実
作中の前半に、ある富豪の飼っていたペルシャ猫が逃げ出すという事件が起こる。
ペルシャ猫、ジョゼットには100万円の懸賞金がかけられたため、人々は血眼になってジョゼットを探しはじめる。
作品の後半になり、ある気の触れたような、朴訥とした青年がジョゼットを見つける。
青年は富豪や人々から罵られながら、ジョゼットを逃がしてしまう。100万円も、名誉も必要とせず、ただ、動物が動物として生きることを肯定するように、そうしたのだ。
この一件を、修平は何度も振り返る。
そして、青年は狂人ではなく、純粋な人間であり、猫の眷属とも呼べる自然な心の持ち主だったと考えるようになる。
さて、修平は作品のクライマックスで、登場人物たちを地下室に閉じ込め、一気に焼死させるという途方もない悪行を行う。(実際は父が肩代りするが、精神的には同じことである)
絹巻刑事から逃げ続ける修平は、懺悔の気持ちを萌芽させはじめるようではあるが、それは果たして真の懺悔なのだろうか。
違う。
修平は絹巻刑事から逃げる中で、このような述懐を行う。
長くなってしまうが、この作品の本質部分なので、触れないわけにはいかない。
ぼくは、幼いころの母の愛撫と、地下室でぼくに灯油を浴びせられていた母のひきつった顔を交互に思い浮かべた。胸から上を炎と化して崩れ落ちていく父の姿を忘れることはできなかった。その母と父の、そして姉の、布施家の別荘における十七年間について考えるうちに、ぼくはなぜかこの宇宙の中で、善なるもの、幸福へと誘う磁力と、悪なるもの、不幸へと誘う磁力とが、調和を保って律動し、かつ激しく拮抗している現象を想像するようになった。調和を保ちながら、なお拮抗し合う二つの磁力の根源である途方もなく巨大なリズムを、ぼくはぼくたち一家の足跡によって、人間ひとりひとりの中に垣間見たのだが、不思議なことに、そのとき初めて、真の罪の意識と、それをあがなおうとする懺悔心が首をもたげたのだった。百万人の飢える子供たちにパンを与えることなどで、ぼくの罪はひとかけらも消えはしない。百万人の末期の人を、身を捧げて看護するなどでも、消えはしない。いつか、ぼくの皮膚は溶け、内臓は腐り、精神は狂うだろう。人間の作った法ではなく、ぼく自身を成している法が、必ずぼくを裁くだろう。その予感は、絹巻刑事の追求よりも何千倍も恐ろしかった。
これを明確にすると、以下のようなことを述べているように思う。
- 宇宙には善と悪が拮抗し、一体となって律動している
- そのため人間には、幸福と不幸がまんべんなく、周期的に訪れる
- 人間も同じく、心の中に巨大な悪があるのと同時に、巨大な愛と善がある
- 修平はこのとき、一家の魔性たちがある種、真の愛のために生きていたことを悟る
- 真の愛をもった者たちを憎み、殺めたのだという後悔心が起こる
- 悔やむ気持ちがあまりに巨大で、耐えがたい苦しみになることを予測する
こんな心理展開になっているものと読んだ。思想としては、ソロアスター教などの善悪二元論を思わせるし、同時に人は原罪を認めて懺悔を行うべきとする、キリスト教の影響を思わせる。同時に、善悪を不可分なものとするのは、仏教的な達観でもある。
しかし、いくら哲学によって悟りを得たように見せかけても、現実として社会には、不条理と貧困と困惑がはびこっているし、そこへ我欲を持って立ち向かっていかなければならないのも事実だ。
人は純粋な善にもなれないし、純粋な悪にもなれないのが現実なのだ。
そこで次の一節を引用したい。作品の中間のあたりに、修平が我欲について考える一節だ。
人は、他者の宿命を平気で眺めるくせに、自分の宿命をみつめる視力を持っていない。これがエゴイズムでなくて何であろう。戦争や犯罪が何によって引き起こされるかを考えてみるがいい。複雑で高邁な論理を並べ立てる人は馬鹿だ。たったひとことで済む。「我欲」だと。ところが人間は、この我欲を切る剣を見つけようとはせず、他者を殺める武器でもって、己の我欲を正当化しようとする。
つまり修平は、「人間のあらゆる行動は、どんな神聖なことのように見えても、すべてが我欲によって行われる」と言っているのだ。
となると、真の善とはなんなのだろうか。
そして、僕は今一度、ペルシャ猫を発見した、気狂いのように思われた青年の話に戻りたい。
青年は我欲を持たず、軽井沢の自然そのもののように佇み、猫を逃がしてやった。
このエピソードについて考えるに、僕は本作に隠された哲学をこう読み取るに至った。
「人間は真の善にも真の悪にもなれない。なれるのは狂人だけだ。生命を肯定する限り、この宿命からは逃れられない」
修平はこの青年に憧れるものの、結局、それは憧れに終わり、「いずれ後悔するであろう」という誤謬に幻想を抱くだけなのだ。
また、そういった欺瞞があまりに人間的で、普遍的であるがために、この作品の重みが僕の心に苦しく響いてくる。
まとめ
この作品に興味が湧いたら、ぜひ読んでみるといい。
下手な哲学書よりも深く、下手なラノベよりリーダブルで、下手な官能小説よりもエロい。極上の読書体験を得られること間違いなしだ。
輝爺ありがとう。そういうことで。
(他にもこういうの書いてくれれば良かったのに、と最後に)
Photo credit: allenthepostman via VisualHunt / CC BY-SA