特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
本棚を漁っていると、かつて多大な影響と感銘を受けた、「デミアン」が見つかった。
ぱらぱらと読んでいくと、かつての葛藤などが思い出され、苦々しくも懐かしい気持ちになった。
この作品はあまりに異質で、精神的で、神秘的である。
しかし僕は、これほどまで魅力的な、悪魔的な作品をそれほど知らない。
そこで今回は、「卵の中の戦争」とも言うべき内的葛藤を描いた、ヘッセの代表作のひとつである、この「デミアン」を紹介したい。
なお、今回は新潮文庫の高橋健二訳をベースにしている。
ヘルマン・ヘッセについて
「デミアン」の著者であるヘルマン・ヘッセは、20世紀前半のドイツ文学者だ。
「ガラス玉遊戯」などの作品が評価されて、ノーベル文学賞を受賞した。
(ガラス玉遊戯も非常に面白い。ロマンSFであり、宗教的でもある、ヘッセの集大成的な作品に仕上がっている)
ヘッセの代表作には、今回の「デミアン」をはじめ、「車輪の下」「郷愁」などがある。
ヘッセ作品の前期では、「自己形成小説」と呼ばれる、少年が性や自己に対する葛藤を経て成長してゆく物語が主に描かれた。
晩年は、「デミアン」の発刊を機に、より内面的かつ精神的な世界へと進んでいった。
内面的な作風が特に顕著となった「シッダールタ」から最後の作品である「ガラス玉遊戯」に至る流れは、ヘッセ自身の探求の道を現しているとも言える。
ちなみに若年期、エリート神学校に通うも、「詩人になるか、でなければ、何者にもなりたくない」とニート宣言をして、学校を脱走したという黒歴史を持つ。
デミアンの魅力
なぜこの作品に惹かれるのかを考えてみた。
まず、静謐で内省的な世界観が心地よい。
ヘッセの描く主人公たちはたいてい、『軟弱』『いいわけがましい』『ニート気質』『酒と女に弱い』という、ダメなやつらだ。
そんな、社会をうまく渡れないダメダメくんが、被害妄想をたくましく、粘質ないじけ話を吐き出し続ける。それが妙に、静かで美しく、自己憐憫的な中毒性があるのだ。
ヘッセの詩集を読むと明らかなのだか、ヘッセは叙情詩人でもある。
そのためか、デミアンの主人公シンクレールの視界に映る人々や事物は、いずれも幻想的かつ叙情的に描かれている。
それでいて、過剰なウェットさがあるわけではない。
美しい文体でありながら、作家としての冷徹さと明晰さが垣間見える抑えられた筆致になっている。
そのバランスが物語に緊張感を与えており、作品の切実さを際立たせている。
デミアンが書かれた背景
デミアンという作品は、ヘッセが精神的な作風に転換しはじめた、ターニングポイントとなる作品だとされている。
その背景として、やはり時代を無視できるものではない。
当時、第一次大戦の体験で疲弊したヘッセは、精神的に病んでしまい、精神科医たちの治療を受けた。この精神科医たちはかの、「カール・グスタフ・ユング」の弟子たちである。
ユングといえば、心理学の父であるフロイトの弟子であり、またフロイトにも並ぶ功績を遺した偉大な人物だ。「箱庭療法」「元型」「集合的無意識」「共時性(シンクロニシティ)」などの概念を作った、心理学のレジェンドである。
当作品には、ユングの弟子たちによる影響が随所に見られるため、その点も解説していきたい。
デミアンのあらすじ
ラテン語学校に通う幼いシンクレールは、不良のクローマーに金をせびられていることに悩んでいた。
また、幼いこの頃からシンクレールは、光の世界(姉や家族や正義のある清らかなキリスト的な世界)と、闇の世界(苦しみや裏切りのある、悪魔的な世界)の軋轢に疑問と不安を抱いていた。
ある日、デミアンという友人が読心術によって、クローマーを黙らせた。
その後デミアンとシンクレールは仲良くなってゆくが、時とともに疎遠になる。
シンクレールが高等中学(日本でいう高校?)に進学したとき女性に恋をする。ダンテの神曲からベアトリーチェと名付けて追いかけるも、思いは届かず、悲嘆に暮れる。
・・・・・・こんな感じで様々な出会いと別れを繰り返し、自己を探求してゆく。
シンクレールはデミアンとは着かず離れず接する。
やがてシンクレールは、真に求めていた女性像がデミアンの母親だと気がつく。
デミアンの母親=エヴァと接するうちに、自己を深く愛することによる喜びを学ぶも、突如としてロシアとの戦争が勃発する。
無情にも世界は「再生のための滅亡」の道を辿り、シンクレールとデミアンは兵士となる。
戦中、シンクレールが負傷兵として馬小屋に横たわっているとき、夢想の中でデミアンと再会を果たす。
デミアンは母親エヴァの言いつけ通り、シンクレールに口づけをして、去ってゆく。
シンクレールは、そのとき、真の自己を見つけたことに気がつく。
名セリフ&名フレーズ特集
個人的に気に入っているシーンを抜き出していく。
ぼくは、ひとりでにぼくのなかから出てこようとするものだけを、生きようとしたにすぎない。それが、どうしてあんなにむずかしかったのだろう。
これが物語の冒頭詩である。プロローグのはしがきの前に書かれている。
これは本編の地の文としてあとから出てくるフレーズでもあり、この作品の命題でもある。
主人公シンクレールは大学入学を控える青年となり、道を失い、恋を失い、こんな葛藤を抱いていた。『なんで俺には、はっきりとした進路や情熱がないの? エネルギーって自動的に湧いてくるんじゃないの? どう生きていくのか、自分で考えるのめんどい』と、要はこういう叫びなわけだ。彼の苦しみは、のちになって、美しきエヴァ夫人に見いだされるまで続く。
「うんーーつまりーーじゃ、カインは悪者じゃなかったのだね? そして聖書に書いてあるあの話はみんな実際はほんとじゃなかったのだね?」
無邪気なシンクレールが、デミアンの説(聖書のカインとアベルの逸話において、定説である、カイン=悪党という説を否定し、カインは英雄であると論じるもの)に対して、信じがたい気持ちで尋ねた瞬間。
こういった、アンチ・キリスト的なモチーフは各所にある。キリスト教を疑い、新しい思想(ユングの奥底にあるグノーシス主義か)によって真の自己の道を模索するというのが、当作品の道筋である。
ここでデミアンはカインの額のしるしを「英雄的な抜きんでた、革命家的な才気のあらわれ」と定義づけ、自分やシンクレールにそれが備わることを指摘した。
「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
当作品では、グノーシス主義という、一般的なキリスト教とは相容れない教えが中心にある。このグノーシス主義では、アイオーン(天使)のひとりとしてアプラクサスが登場する。また、この鳥神アプラクサスは幸運の神であると同時に、性欲などの、反キリスト的な意義をも合わせ持っていた。
後期のユングの思想にはグノーシス主義の影響があったこともあり、ユングの弟子たちを通じて、ヘッセは自己探求の答えをアプラクサスに求めたのだろう。
彼女は、星に恋した若者の話をした。若者は海べに立って両手を伸ばして、星をあがめ、その夢を見、心の思いを星にむけた。しかし、星を抱擁することは人間にできないということを彼は知っていた。あるいは知っていると思った。実現の希望がないのに星を愛するのは運命だ、と彼は考えた。
シンクレールがこよなく愛する、デミアンの母親(オイオイ・・・・・・)であるエヴァ夫人は、若いシンクレールをいさめるように、上記のたとえ話を語ったのだ。
エヴァ夫人は、「愛を願ってはなりません」「愛を求めてもなりません」と言う。
自分自身を愛するように、ただ、愛に向かう集中力だけを研ぎ澄ませれば、自ずと世界が引き寄せられてくるのだ、と。
凡夫が恋人ひとりのために世界を犠牲にするのに対して、しるしのある者は、恋人の中に世界を見いだすのだと。
「・・・・・・それからもう少し言うことがある。エヴァ夫人が言った、きみがいつか逆境にいることがあったら、彼女がぼくにはなむけにしてくれたキスを、きみにしてあげておくれって・・・・・・目を閉じたまえ、シンクレール!」
戦場で怪我を負って、馬小屋で血を流し横臥するシンクレールの元に、なんの奇跡か、デミアンが現れた。デミアンは、もうシンクレールはひとりで生きてゆけることを告げ、次いで、エヴァ夫人から預かったキスを捧げる。
それによってシンクレールは真の、自立した自己を手に入れた。
元型と登場人物たち
極論すれば、あらゆる登場人物たちは「シンクレールの人格から派生した元型たち」と言うこともできる。ここでは、ユングの理論を元に物語を掘り下げてみたい。
なお、ここでは物語を掘り下げるための予備知識として、簡潔に紹介するに留める。詳しくは専門書などを当たって頂きたい。
集合的無意識
ユングの理論の中には、集合的無意識というものがあり、これは、「人間の潜在意識の奥には共通のビジョンがあり、各地の神話や伝説に見られるような、女神や父神などの象徴が人格形成や行動に作用している」といった考え方の基盤となる概念だ。
元型
ユングは「元型」という概念を生んだ。
前述の集合的無意識内に住む、いわば様々なキャラクターたちだ。
それには、「アニマ(女性像)」「アニムス(男性像)」「セルフ」「シャドウ」「太母」「賢者」「トリックスター」「ペルソナ」などがあり、それぞれが神話などでの神のモチーフであり、かつ、個々人の人格の一部であり、かつ、人間が生涯を通じて求め続ける渇望の対象であると定義される。
たとえば「アニマ」とは、男性にとっての理想の女性だ。
アニマという少女は、宿主の男性の中に住んでおり、男性の成長に応じて彼女も成長する。肉体的、外見的な要求が、本質的な愛情や、喜びの要求に変わってゆく・・・・・・。
男性が求めているものは生身の女性ではなく、自己の中に描いた女性像である、ということである。
これと同じように、太母は恐ろしく偉大な母親だ。これは、シンクレール自身の母親であり、エヴァ夫人である。
そして、各種の元型の中で一番重要なのは、「セルフ」と呼ばれる自己を統合する元型である。
すべての元型は「セルフ」という大きな樹から伸びた枝の先にぶら下がっているにすぎず、根幹の「セルフ」を見いださない限り、自己の統合はない、ということだ。
この、「自己の統合」によって自己を受け入れるという概念は、ユングの中心的な思想のひとつでもある。
こういった背景を考えると、デミアンという作品自体が、ヘッセ自身の巨大な精神的箱庭である気もしてくる。
最後に
デミアンを読んで改めて思うのは、「人間は人間のことを未だ理解しておらず、進歩していない」ということだ。
事実、これだけ心理学について研究されているのに、ほとんどの人が自己や自己の幸福について理論を持っていない。
(まあ、デミアンを読んだあとだと、どうしてもこういうテンションになってしまう・・・・・・)
さて、僕たちの内面という卵の中では、今でも戦争が起こっている。
それはときに、外なる戦争として銃弾と爆煙と流血を生む。
ときに隣人への暴言となったり、自己への攻撃となる。
敵は外ではなく、自分の心の中にいて、「僕は仲間なんだよー」と訴えている。
もしも「デミアン」を読むことがあったら、少しだけ、このことを考えてみて欲しい。