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kyamanekoです。IT、思想、哲学、心理学などの記事を書いています。

個人情報漏洩させたらこうなった - vol. 60

実録! 個人情報漏洩させたらこうなった

イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……

※本作はフィクションです

 

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vol. 60

 矢口が入院した病院は、住宅地のなだらかな坂の上にあった。
 由加里たちが病院の敷地に着いたのは、19時半だった。
 3人とも会社帰りで、カバンを持っていた。
 由加里は手土産を持ってこなかったが、有志の社員たちから見舞金を集めてきた。
 安原は、差し入れのなにかをカバンの中に入れてきたようだ。
 広い駐車場は、風に吹きさらされていた。
 明るい月の下、コウモリが舞っていた。

 そんな中、正面入り口に向かう途中で、佐川が言った。
「さっき、矢口くんに電話したときは、乗り気じゃなさそうでしたが」
 由加里は答えた。
「お見舞いは、日を改めた方がよかった?」
「まあ、ここまできたので、お邪魔しましょうか」
 そこで、安原が言った。
「あいつ、アマノジャクなだけですよ。藤野さんがくるってだけで、狂喜してますよ。どうせ」
 由加里は安原を睨んだ。
「もう、そういうのは、いいから」
「すいません……」

 由加里は面会の受付をして、階段へ向かった。部屋は2階の203号室だった。
 じめじめとした空気の中、消毒液の匂いが漂っていた。
 日曜日に矢口を連れてきたときは救急診療室へ行ったのだが、さすがにあそこの、張りつめた空気とは違った。
 パジャマ姿の患者たちがのんびりと院内を行き来していた。彼らは安寧の中に、静かな不満をひそめている感じがした。


 矢口は6人部屋の窓際にいた。
 由加里は奥のカーテンへと向かっていった。佐川と安原もついてきた。
 周囲のベッドには、年配の患者がいるようだった。
 奥の白いカーテンの前までくると、由加里は声をかけた。
「矢口くん、入っていい?」
 少し間があって、声がした。
「どうぞ」
 由加里はカーテンを開けた。

 矢口は左半身を下にして左手で漫画を持っていた。すると、漫画を枕わきに置いて、体を起こしはじめた。
 足をふんばり、ベッドの頭側に体を寄せて、ずり上がっていった。
 右手は器具で固定されていた。
 唇は白く、顔には包帯が巻かれていた。
 さらに、下半身がシーツに覆われていたため、蘇りつつある、小柄なミイラ男のようだった。
 由加里は言った。
「疲れているようなら、出直すけど……。大丈夫?」
「平気ですよ……」

 そこで、佐川が歩み出た。
「顔が見れて、よかったよ。今回は、ホント、疑って悪かった。申し訳ない」
 そう言って、佐川は頭を下げた。
 矢口は言った。
「いえ。会社の不利益になるようなことを、目論んでいたのは、事実ですから」
「もう、過去の話だな。いまは、矢口くんのお陰で、会社が救われそうなわけだし。とりあえず、ゆっくり休んでよ。席とかは、そのままにしておくからさ」
「ええ、そうしますよ……」

 そのとき、由加里はバッグから白い封筒を取り出した。
「これ、役に立てばと思って……。有志の社員から、集めてきたの」
 封筒には、『御見舞』と書かれていた。
「どうも……。助かります」
 矢口は左手を伸ばして封筒を受け取ると、枕元の漫画の上に置いた。
 やがて、ずっと黙っていた安原が言った。
「あとさ、俺からも……」
 安原は自分のカバンを開いて、コンビニのビニール袋を取り出した。
 ビニール袋には、コカコーラ・ゼロのペットボトルが入っていた。
「こんなもんしか、思いつかなかった。なんか、すまん」
 由加里は呆れて言った。
「なによそれ! もう、そんなお見舞い、聞いたことないわよ」
「いや、矢口って、こればっか飲んでるから……」
 そこで矢口は、肩をゆすって、静かに笑いはじめた。
「ちょうど、飲みたいと思ってました。でも、売店まで行くの、面倒だったから」
 矢口はコーラを左手で受け取りかけて、言った。
「開けてくれると、うれしいんですが」
「しょうがねえな」
 安原はフタを開けて手渡した。矢口はうまそうに飲んだ。
 由加里は言った。
「長居になっちゃうから、もう、帰るね」
 矢口は口元を袖でぬぐった。
「はい。ありがとうございました……」
「それじゃ、とにかくお大事に」
 由加里は背を向けた。
 それにしても、まだ、矢口は心を閉ざしているようだった。どことなく、よそよそしい感じがした。
 由加里はそのことに悩まされた。矢口の本心が、どうにもわからなかった。
(矢口くんは、お金よりも仲間を選らんだことに納得できたの? わたしのことを、まだ恨んでいるの? 会社に戻ってきてくれる気はあるの?)

 病室の出口にさしかかると、白髪混じりのほっそりとした女性がおり、ふいに話しかけてきた。
「すみません。智宏(ともひろ)の……矢口智宏の、会社の方でしょうか?」
 由加里は答えた。
「ええ……。そうですが」
 由加里たちは廊下で話をはじめた。
「わたくし、矢口智宏の母の、道絵と申します。息子が、大変お世話になっております」
「こちらこそ、智宏さんには、お世話になっております。わたくし、藤野と申します。それとこちらは、佐川、安原です。みな、懇意にさせて頂いております」
「わざわざ、お見舞いにきてくださいまして、ありがとうございます。息子から電話があり、駆けつけまして。なにしろ、アパートの階段で転んで、骨を折ったと聞いて……。あわてて、こちらに参りました」
「そうでしたか。それはご苦労様です」
「本当に、ひどい転び方をしたようです」
 由加里は話を合わせることにした。
「わたくしたちも、智宏さんのお怪我のことを聞いて、驚きました。ホント、気をつけないといけませんね。しかし、命に別状はなく、なによりでした」
「それにしても、本当にありがとうございます。息子は昔から、ホラ。あんな性格でして。……それなのに、あたたかく受け入れてくださって」
「いえ、とんでもない。寡黙で、誠実な方です」
「ありがとうございます。息子は、申しておりました。……自分が道を間違いそうになったとき、会社の方たちが正してくれた、と。恩返しをするまで、続けたい、と」
「智宏さん、そんなことを……」
「ええ。実のところ、今日、地元に帰るように勧めてみたんですよ。心配になってしまって。でも、断られました」
 そこに、女性の看護師がきた。
「あの、そろそろ面会時間は終わりとなりますので」
 由加里は言った。
「わかりました。申し訳ありません。……それでは、お母さま。どうぞご無理なさらず」
 由加里たちは病室を後にした。


 2ヶ月も経つと、個人情報漏洩事故の対応は落ち着いてきた。
 GRシステムとDNプランニングの交渉の結果、示談の方向で進んだ。
 GRシステム側の提案通り、クレジットカード情報漏洩者にMegaカードを送付し、その他は配布なしとした。
 また、クレジットカード決済機能の改修も進んでいった。
 エンドユーザーとの訴訟問題が2件起こりかけたが、なんとか、個別の対応でおさめることができた。

 矢口は退院して復職し、しばらく片手での仕事を余儀なくされた。


 インターネットの中では、日々、見えない戦争が繰り広げられている。
 そこでは、見えない銃弾が飛び交っている。
 守る側は、ひたすら備えなければならない。
 1発の銃弾が、すべてを奪うこともあるからだ。

 人は生きていく中で、多くを守らなければならない。
 家族や仲間や恋人。家や財産。土地や食料。
 価値のあるものを守り続ける。
 それが人間の歴史だったか。
 かつて人間は、食料を争った。
 次に人間は、土地と利権を争った。
 いまや、情報を巡って争う時代になった。
 人間が生きる限り、戦いがなくなることはない。


 ――事故から2ヶ月後の、ある曇った朝のことだ。
 佐川は出勤時、アパートを出たときに、郵便受けを見た。
 時間に余裕があるときは、チェックするようにしていた。
 どうやら、個人情報漏洩事故を起こした満天市場から、郵便物がきているようだ。
 佐川は手にとって、封筒を開けた。
 おきまりの謝罪文が入っていた。
 そこで佐川は改めて、『システムを守る側』の辛さを噛み締めた。
 同時に、クラッカーに対する怒りも湧き上がってきた。
(どこのどいつが、なんのメリットがあって、サイバー攻撃なんてするんだよ。……そんなことをして、なんの得があるんだよ……)

 そのとき佐川は、Megaカードのロゴがデザインされた、小袋に気がついた。小袋の中には500円、と書かれたプリペイドカードが入っていた。
 毎日、個人情報漏洩事故が起きている。Megaカード社も、大層忙しいことだろう。
 佐川はそう思って、Megaカードを財布に、封筒をカバンに入れた。

 

 第1部 完

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