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648 blog

kyamanekoです。IT、思想、哲学、心理学などの記事を書いています。

個人情報漏洩させたらこうなった - vol. 58

実録! 個人情報漏洩させたらこうなった

イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……

※本作はフィクションです

 

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vol. 58

 由加里は椅子から立って、矢口を見た。
 ドアの陰から現れた矢口は、全身ボロボロだった。
 眼鏡の右のレンズはひび割れ、全身濡れそぼっていた。服や口まわりに血の跡がこびりついていた。
 その姿は、迷い込んできた野良犬のようだった。
 右手は三角巾で固定されていた。骨折でもしたのだろうか。
 左手にはバッグを持っていた。
 矢口は物怖じせず、つかつかと進むと、テーブルの前にやってきた。
 そこで、乱暴な動作でバッグをテーブルに置いた。矢口の決意と怒りが伝わってきた。
 浦谷や大島をはじめ、みな目を剥いて固まっていた。
 会議室に入って左手には佐川、由加里、大島が座っていた。
 右手には、岩倉、雨宮、浦谷、その他の役員らしい2名が座っていた。
 矢口は浦谷を睨みつけて、口を開いた。
 しかし、口元をわなわなと震わせるだけで、声は出てこなかった。
 言いたいことがあり過ぎて、言葉にならないのだろう。
 浦谷は矢口を見て、唖然としていた。
 桑部は言った。
「浦谷社長、もろもろ、聞かせて頂きました」
 浦谷は目をそらした。

 矢口は左手でバッグのファスナーを開いた。中からクリアファイルを取り出して、伏せたままテーブルに置いた。
 由加里はぴんときた。
 きっと、セキュリティリスクの注意喚起を行ったときの資料だろう。
 矢口が岩倉と、一対一のミーティングのときに使った資料。……さらに、ミーティングのあと、浦谷が資料を確認し、セキュリティリスクを無視する決定した。岩倉の話では、メールでその旨を返したらしいから、メールのプリントアウトなども含まれているのだろうか。

 桑部は言った。
「矢口さんは、今回の情報漏洩事故について、重要なことをお伝えしにきました。……さて、矢口さん、どうですか? どうやら、満身創痍だ。よろしければ、私の方から言いますが」
「いえ、自分でやります」
 と言って、矢口はクリアファイルを指した。
「浦谷社長……。証拠を全部、持ってきたよ」
 浦谷は言った。
「な、なんですか、突然。無礼でしょう」
 矢口は左手をクリアファイルの上に叩き付けた。
「しらばっくれるなよ! ここまできたら! 終わったんだよ!」
 由加里は矢口の横顔を見た。その顎から、涙とも汗とも取れない水滴が落ちるのを見た。
「遠かった……。家からここまで……」
 そこまで言って、矢口は言葉を詰まらせた。
「なあ、浦谷……。おまえを、ナイフかなんかで、ぶっ刺すのも考えたよ」
 そこで、矢口は振り向いてきた。
 由加里は息を呑んだ。
 矢口はGRシステムの面々を眺めてから、再び浦谷を見た。
「でも俺は、守る道を選んだ。仲間を。……そういうことだよ」
 浦谷は言った。
「な、なにを言ってるんだ……」
「往生際が悪いんだよ! もう、逃げられねえよ。アンタは、この資料を見たはずだ」
 と、矢口はクリアファイルに人差し指を突き立てた。
「なのに、アンタは無視した。岩倉さんを通じて見せた資料を、きちんと見たのに、取り合ってくれなかった。まあ、アンタも神様じゃないから、こんな事故が起こるなんて、思ってもみなかっただろう。でも、このエビデンスを握り潰すのは、神様だってできねえよ。……このエビデンスは、過失相殺の根拠になるはずだ。ねえ、桑部さん。さっき、そうおっしゃいましたね。……わかってるだろ。社長? ここには、その証拠が、しっかりあるんだよ!」
 浦谷は青ざめた顔で言った。
「しょ、証拠? いや。いくら、セキュリティリスクについて、注意喚起があったとしても、ウチの過失になんかにはならないだろ!」
「いや。なるよ。それがわかっていたから、アンタは、俺にあんな電話をしてきたんだろ!」
「電話だと? そんなものは、知らんね」
「電話どころか、アンタ、チンピラを送り込んできたな。ホント、虻みてえにうっとうしいヤツだよ。あいつ自慢げに教えてくれたよ。俺を脅せば、金をもらえるんだ、って」
「なんの話だ?」
「アンタからも、タカるつもりだってよ。アンタを脅すためのネタ、色々あるからってよ」
 すると、浦谷は苛立たしげにつぶやいた。
「虻沼の野郎……。あいつ、ホントにそんなことを」
「いや。嘘だよ」
 浦谷はぽかんとした表情をした。
 そこで、矢口は桑部を見た。
「こんなところ、ですか?」


 矢口は自分の仕事を終えたかのように、テーブルから離れた。
 そのまま、右腕を押さえて、苦しそうに床へ座り込んだ。
 桑部は言った。
「うん。こんなところですね」
 浦谷は不審そうに言った。
「な、なに言ってるんだよ……。おまえら」
 選手交代し、今度は桑部がテーブルに詰め寄り、浦谷へ言った。
「さて、浦谷さん。あなた、先ほど、セキュリティリスクがどうの、とおっしゃいましたね。矢口さんは、一言も、資料の内容がどんなものか、言っていませんが」
 桑部の眼下には、クリアファイルがあった。桑部はそれを持ち上げ、表にした。
 『決算報告書』と題された資料だった。
「いえね。私、自治会の役員をやっておりまして。矢口さんの資料が雨に濡れて、使い物にならず。急遽、代用しました。さて、浦谷さん。あなたは、見てもいない資料が、どんなものか、知っていたことになりますね。これは、矛盾しています」
 浦谷は信じられないように、目を剥いた。
「馬鹿にしてるのか?」
「矢口さんは、資料の元データ、並びにメール返信文面。メールサーバのログを確保されています。あとは、プロバイダにも情報請求することになりそうですね。浦谷さんが証拠の真正を認めなければ、の話ですが。さて、こうなると、過去の判例を元に考えると、GRシステムさんの責任は依然軽くはありませんが、並びに、DNプランニングさんにも責任が発生します。結果、やはり、一定以上のラインで、過失がある、とみなされると思います。さて、企業として、エンドユーザーさんへ補償を行うのは素晴らしいことですが、その一部は、DNさんが負担されることになります」
 浦谷は無言だった。
 桑部は続けた。
「あとは、もう一点。浦谷さんは、虻沼、という名前を出しましたね」
「いや、覚えてないな……」
「虻沼は、浦谷さんから依頼を受けて、矢口さんに暴力行為を働きました。暴対法や条例を持ち出さなくても、刑法61条、教唆罪に抵触する行為です」
「虻沼? 誰だよそれ」
「ふむ、しらを切るわけですね」
 すると、桑部は由加里を見た。
「藤野さん、お願いしておいた、あれは……」
 由加里はうなずいて、ジャケットの前面裏側から、小型のレコーダーを外した。
 由加里は言った。
「全部、録音してあります」
「ありがとうございます。……浦谷さんは覚えていらっしゃらなくとも、機械は覚えています」
 そう言って、桑部は由加里へと近づいてきた。由加里はレコーダーを渡した。
 桑部はレコーダーに向かって言った。
「201X年2月17日、DNプランニング社内、会議室にて」
 桑部はレコーダーのスイッチを切ると、それを耳元に寄せて、再生ボタンを押した。
 桑部は満足そうに微笑んだ。
「十分ですね。音質も悪くない」
「そんな盗聴、違法だ!」
 と、浦谷は言った。
 桑部は雨宮へ言った。
「久しぶりですな、雨宮さん。うちでやってもらっていたときも、ありましたね。録音を扱った事案」
 雨宮はびくりと肩を震わせた。
「説明してあげたらどうですか? 雨宮さん」
 雨宮は桑部を睨んだ。
「もう、上司面は止めて頂きたいですね……」
「それでは私からご説明します。まず、これは盗聴ではありません。録音の事実を、少なくとも藤野さんが知っています。また、藤野さん自身の声も録音されています。この場合、盗聴の要件を満たしません。よって、今回は、秘密録音というものになります。行儀の良いやり方ではありませんが、裁判では証拠となり得ます」
 浦谷は口を開けて放心していた。ゆっくりと椅子にもたれ、呆然と天井を見上げた。
「なんだよ。それ……」
 桑部は言った。
「まずは、示談の道を探りましょうかね。さて、雨宮さんも、いい加減パソコンから離れて、なんとか言ってください。そうでなければ、人形でも置いておきますか。それと、コンビニありましたっけ。……煙草、切らしちゃいまして」

 矢口は床に座って腕を押さえていた。
 由加里はそこへ駆け寄った。
「大丈夫? 矢口くん……」
 矢口は言った。
「俺、いまからでも、間に合いますか?」
「早く、病院に行きましょう」

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