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kyamanekoです。IT、思想、哲学、心理学などの記事を書いています。

個人情報漏洩させたらこうなった - vol. 52

実録! 個人情報漏洩させたらこうなった

イベント運営会社『DNプランニング』が運営する、チケット販売サイト『オールチケットオンライン(OCO)』は、約14万人の会員を抱えていた。
ある日、OCOはサイバーアタックを受け、約9万人の個人情報を流出させてしまった。
システム保守を行う『GRシステム』は、責任を問われ、対応に奔走することになった。
もし損害賠償請求をされたら、たちまち倒産するかも知れない。
苦情とサイバーアタックの嵐の中で、関係者たちは……

※本作はフィクションです

 

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vol. 52

 矢口は家に帰ると、バッグを置いてエアコンを入れた。
 そして、そのままの格好で小さなベッドに横たわった。
 部屋やベッドは、いつもながら湿っぽい臭いがした。
 まだ日中だったが、カーテンを閉めていたため深海のように暗かった。
 周辺住民が市街に出ているためか、静かだった。

 矢口は横臥して、由加里の話を思い出した。岩倉から聞いたという、エビデンスの話。
 それから、虻沼の顔とタバコ臭い車内を思い出した。裏切ったら、東京湾の底の龍宮城に行けるかも知れない。
 次は、GRシステムの面接を思い出した。大島と佐川と由加里が面談相手だった。
 記憶はもっとさかのぼった。
 専門学校のころは、社会に出るのが怖かった。
 そして高校時代、中学時代の記憶。
 基本的に不幸だった。
 これからも似たようなものだろう。
 それでも、ソフトウェア開発の仕事に出会えたことは救いだった。

 昔なら社会不適合者として追いやられていただろう。
 そんな矢口にとって、唯一他人に認めてもらえる場所が、ソフトウェアの世界だった。
 子どものころから、物を作ったり、組み立てたりするのが好きだった。
「あったかいなあ」
 と、父親が言った。
 矢口は肩まで温泉の湯につかり、父親を見上げた。父親の眼鏡は曇っていた。
 となりの母親が言った。
「ちゃんと、『とお』まで数えなさいね。ゆっくり」
 矢口は目をつむり、湯に手足を広げて、数えはじめた。
「いーち、にーーい」
 そのときだった。
「なんで、こんなことしたの!」
 その母親の声で、矢口は顔を上げた。
 気がつくと、薄暗い部屋で、母親と対面して正座していた。
 父親はいなかった。
 母親は右手を振り上げ、矢口の頬をたたいた。
「泥棒なんかを、育ててきた覚えはないわよ!」
 矢口は言い返した。
「ほんとうだって! 盗んでないよ」


 そこで矢口は目を覚ました。
 カーテンの向こうは夜だった。
 夕食の匂いが漂う中、隣の部屋のテレビの音が漏れ聞こえてきた。
 ゴールデンタイムの音楽番組か。
 寒かった。
 エアコンの設定温度を上げて、毛布を引き寄せた。
 寒すぎて頭が回らなかった。
 どうやら腹が減っていた。
 しばらくぼんやりしてから、目元をこすって目やにを取り、立ち上がった。
 近所の中華料理屋か、少し離れた定食屋の2択だ。
 矢口はコートをはおって玄関へ向かった。4年前に買った、ミリタリー風のモッズコートだ。

 玄関へ近づいたとき、ドアの向こうから足音がした。
 挨拶が面倒だから、相手が通り過ぎてから外へ出ることにした。
 しかし、足音は矢口の部屋の前で止まった。
 しばらく待っても、動く気配がしなかった。
 矢口はふと、虻沼のことを思いだした。
 浦谷や虻沼には、明確な返事はしていなかった。『金を受け取るので、エビデンスは隠し通します』みたいなことは、まだ伝えていなかった。
 とはいえ、反抗的な態度はとっていないはずだ。
(誰だよチクショーこんな時間に!)
 2月の沁みる寒さの中、手にかいた汗が気化していっそ冷えた。
 矢口は震える手で眼鏡をかけ直して、ドアの覗き穴に近づいた。
 そのとき、チャイムが鳴った。
 間延びした音が、2度。
 矢口は『うわ』と間抜けな声を出し、もう1度覗き穴を見た。
 矢口は訪問者を見て驚いた。
 チェーンを外し、サムターンをひねり、ドアを開けた。
「わ、すぐ出てきましたね」
 と言って、緑川は口元をおさえた。
 グレーのコートを着て、マフラーを巻き、茶色い耳あてをしていた。毛深い動物のようだった。
「なんだよ。緑川さん、なんでこんなところに……」

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